2 狙われたルピナス
付き合って、の言葉に否やはない。ルピナスは、もちろんミュゼルに連れられて昼下がりの東公都を歩いた。正確には名のある貴族が公都邸を構える高級居住区を、だ。
慣れたとはいえ、生まれ育った北公都と港街エスティアでは明らかに趣が違う。海から吹く風も、オレンジが似合いそうな暖かな陽射しも、あざやかな緑も。そこかしこを飾る花々の彩りさえも。
ミュゼルが言うには「ちゃんと秋よ」とのことだが、ルピナスには晩夏のように感じられた。
よって、休暇の気楽さも手伝い、服装はかなり着崩している。帯剣は常として詰襟の丈長上着は羽織るだけ。シンプルな白シャツは軽く腕捲くりし、脚のラインに沿った黒いズボンに同色のブーツ。外出するならば、と、急遽うなじで括った藍髪はサラッサラのツヤツヤ。とんでもなく映えている。
「いやあね、後ろから見ても美人なの」とこぼすミュゼルに、ルピナスは振り向き、ふっと笑って腕を差し出した。
「どうか隣を歩いてくださいませんか、我が姫」
「よろしくてよ」
――東公邸を発ち、馬車を降りて最初のやり取りがこれである。小耳に挟んだ御者はにっこりと笑った。
「こちらで待機しております。お嬢様、ルピナス様、お気をつけて」
了解の意を揃って口にしたふたりは、仲良く連れ立って街歩きに興じていた――ように、見えた。
* * *
「で? なぜここに?」
「敵情視察よ、ルピナス。ほらあそこ。今夜はあのお家で夜会がひらかれるんだけど。なんと、秘密の夜会なの」
「秘密……? どういう集まり?」
怪訝そうに問い、まなざしがにわかに細められる。
相変わらず犯罪じみたものへの嗅覚が人一倍鋭い婿どのに、ミュゼルはにんまりと笑った。
「たぶんね、海向こうの外つ国の流行りを真似てるの。目の周りを隠す仮面を付けるのよ。それがドレスコード」
「ふうん」
道沿いに日よけの常緑樹が等間隔に並ぶ。その木陰でひそひそと声を交わす恋人たちは、街の体感温度をいささか上げているかもしれない。
が、本人たちはいたって真面目。
ミュゼルはバッグから扇を取り出し、顔に風を送る体で口元を隠した。
「問題はそのあとよ。最近、懇意にしてるご令嬢がたから泣きつかれるの。『秘密の夜会』で、こともあろうにパートナーを男性に取られたって」
「は?」
「男性に」
「いや、わかった。全然わからないけど、わかった」
あからさまにドン引きして半歩下がるルピナスに、ミュゼルはホッと息をついた。
これは主に王太子殿下ご成婚の儀のあと、ちらほらと聞くようになった東方貴族らの醜聞だ。
泣きつかれる前提もあまり褒められたものではないため、未来の伴侶殿が返してくれる、ごくふつうの反応に心から安堵する。
「元々この辺の貴族って、おおらかというか……。倫理観が致命的に緩いのよね。ゼローナ王国規範に従って一夫一婦制ではあるんだけど、表沙汰にしなければ大丈夫? みたいな」
「理解できない」
「私もよ。――きゃっ?」
真顔のルピナスに突然頬に口づけられ、素っ頓狂な声をあげたミュゼルは、扇の下で声をひそめながら叫ぶという高等テクニックを披露した。
「(ち ゃ ん と 聞 い て く だ さ い!!!)」
「聞いてるよ」
「もうっ」
ぶつぶつと嘆く令嬢の愛らしい横顔が淡い朱金の巻き毛に隠れてゆく様子に、ルピナスはこっそりと相好を崩す。
ミュゼルは、ふんすと居住まいを正した。
「と、とにかく。お遊びの延長でうかうかと参加した彼女たちにも落ち度はあるとして。問題は主催者のバーゼット侯のご子息ね」
「バーゼット。ひょっとして海軍の口利き商会の?」
「そうそう。その息子で東公領騎士団所属。名はアドニス殿」
「……ああ! あいつ!」
――――情報と記憶が完全に一致したらしい。
ルピナスは、心底いやそうに呻いた。
* * *
アドニス・バーゼットは二十七歳。筋金入りの面食い且つ素行の悪さで有名だった。手を付けたメイドや貴族令嬢は数知れず、果ては既婚女性との噂まである。
そんな男が、王都で王太子妃を目にして雷に打たれたように立ち尽くした。
女神のごとき麗しの顔、潤んだ黒瞳、流れる星を宿す藍色の長い髪。白百合を思わせる立ち姿に楚々とした振る舞いと笑顔。彼女こそ理想の乙女だと…………――
「ストップ、ミュゼル。そいつ頭おかしい?」
「ずれてるのは確かよね。浅はかな犯罪に走らなかったのは、最低限ぎりぎりとして」
「アウトだろ」
「まあ聞いて。続きがあるわ」
自身もそこそこの美男子と評されるアドニスは、整った容貌に青年らしい色香を備えた厄介な逸材でもあった。
すでに至高の女性へと上り詰めつつある王太子妃・アイリスは諦めざるを得ないとして、彼女の双子の弟ならば、ありなのではと…………――
「ないだろう」
「そう。万が一にもさせないのよルピナス。なのにねぇ」
ほう、と、花も恥じ入る仕草で片頬を押さえたミュゼルは、滔々と語った。
男同士のふれあいならば婚約者も目くじらを立てないだろう、とか。
あのうつくしい髪に指をからめたい、とか。
そうと決まれば同性でも虜にできるように練習を、など。
「………………馬鹿なんだな?」
「馬鹿よね。おそろしいのは、そんなアドニス殿の本気の戯れにコロッと落ちる令息や紳士がいらっしゃったことなの。お邸づとめの下男だろうと見栄えが良ければ部屋に引っ張り込む……らしいわ」
「うわあ」
さすがに後半は口ごもり、視線を逸らしてしまった。
そのことが余計に信憑性を持たせたらしい。ルピナスが口を開けて固まっている。
「その。だからね」
「うん?」
哀願するまなざしで両手をとられ、ルピナスは反射で我に返る。
ミュゼルは、エスト公爵家直系ならではの蜂蜜色の瞳につよい意志を宿し、切々と訴えかけた。
「ぜひ協力してちょうだい。『誰か』が、あの不届き者に思い知らせてやらなきゃいけないわ」




