16 花盗人
不気味な葉の擦れ合う音や蔓が這う音、メキメキと何かを軋ませる音が完全に止まった。きん、と耳が鳴るほどの静寂。
窓際で意識を研ぎ澄ませていたトールは、ふいに脱力した。ことん、と、抱き寄せていたシェーラの首筋に甘えるように額を落とす。
「だめか……。残念」
「それは、いまも自分たちを“転移”させるのが叶わないという意味だな。――ちっ、離せ。なら、別の手段を講じなければ」
「逞しいねぇ」
「言ってろ」
細身ながらも確かな質感を持つトールの体をぐい、と押しやり、シェーラは注意深く辺りを見回した。
何か。
何か、活路はないか。
天井からもちらほらと垂れる蔓。白く細長い蕾。来客のために片付けられた部屋は、見る影もなくマリアンに占拠されている。
足音をたてず、そっと扉の方向へ。
茎を切っても構わないのなら行けないことはない――そう判断したシェーラは次の瞬間、目を疑った。
「!? 馬鹿めっ、何をやってる」
「いやちょっと、元の株のサンプルを採取しようかと」
「あああ、もう!」
振り返ると、いつの間に『目を覚ました』のか、ぎちぎちと幾重にも蔦をかさね、トールの両腕を締め上げる月華草の本体がいた。
本体と呼んで差し支えないと思ったのは、増殖した茎や蔓のようにバケモノじみた太さではないこと。元々の繊細さを、いまもその形状に留めていたからだ。
走り寄ったシェーラは、しかし、懐剣を抜くことも出来なかった。身動きも取れない。
こちらは先ほど「切ってもいいなら」と思案した蔓たちに、背後から瞬く間に羽交い締めにされたので。
「ぐっ……、王、子……!!」
みるみるうちにトールの全身が緑に呑み込まれる。
まるで、騙し討ちにあったことを怒るような勢いだった。
部屋の灯りも消され、蔦の合間にわずかにこぼれる光。それは。
「開花……? 夜になったのか。くそっ、どうなって」
シェーラはもがいた。
マリアンは、自分をトールに近づけないのが目的であって、それ以上を行う気配はない。つまり拘束以外の意図は見られなかった。
だからと言ってトールが害されない保証はないのだ。
もし。
想いを得られず自棄になった人間のように相手を。
――――道連れにしようなどと考えられては。
(…………だめだ。駄目だ、そんなのは!!!)
ぷちん、と、何かが切れた。あるいは壊れた気がした。
失うものなど何もないと思っていた。故郷を出てから、ずっと。
失敗作の呪符から作り出した品々を売り捌き、いけ好かないゼローナの中枢に嫌がらせをした。
いつ捕まるかわからない潜伏生活。その果ての捕縛。
その、どれにも本当の意味で心動かされることなどなかった。
唯一、破滅への衝動を止められたのは東都で出会ったあの娘――エスト公爵家の娘・ミュゼル。
彼女にアデラ語で叔父の名を出されたとき。
「逃げずに償え。足りぬなら贖おう」とまで言葉を託してくれた。ジハークの長メルビンの厳しさと温もりの両方を胸のなかに蘇らせてくれたときだった。
そして、いま。
わずかしか共に過ごしていないはずのトールの顔が、やたら次々と脳裡に浮かぶ。
契約のことも、メルビンに誓った償いへの責任すら遠く霞む。心を引き千切られるような痛みだった。
知っている。これは、喪失への……
「やめろおぉぉぉ!!!」
「――そう。やめなさい、わたしの眷族だったモノ。それとも『マリアン』と呼べばいい?」
“――……!”
突如、月が降り立ったかのような光輝。しんしんと染みるあえかな声音。部屋のなかで随所に咲く白い花よりも花のようなひとだった。「妖精……」
ぽろりと口走るシェーラに、やや苦いまなざしのそのひとは明るい翠の瞳をしていた。
外套に包まれてなお月華草の化身に相違ない美女。『夜のクロエ』がそこにいた。
「なぜ」
「お喋りはあとでね。愛しの王子を奪ってくれたかた。昼間のわたしからも、それはまぁいいように言われたけれど。わたしだって見境がないわけじゃないのよ。そこんとこは履き違えないで」
「あ、ああ」
すらすらと言い負かされた感はあるが、シェーラは大人しく白銀のクロエを見守った。
クロエは恐れることなくトールが呑み込まれた辺りに手をかざし、淡々と語る。
「ねえ。もう充分でしょう? どう歪められたことを引き合いにしたって、貴女はそのぶん彼と共にあれた。それはわかってるはず。これは、彼から感じた貴女への気持ちなんだけど……できることなら、本来の姿に還してやりたいとも念じていたわ。けど、出来なかった。貴女が消えるのに耐えられなかったのよ。ばかね。本当に稀有な男」
“――――……ッ、…………ーー!!”
押し寄せる、身悶えするような気配。
例えるならば顔を覆い、身も世もなく泣き崩れる女性の姿が浮かぶようだった。
シェーラは、ごく、と喉を鳴らした。
言うべきではない。けれど、伝えたかった。
「…………聞いてくれ。王子は、目に余るほどの植物狂いだ。そんな彼の執心をずっと受けていたんだ。わかるだろう? 彼は、そうやって自分が捕らえられてもお前を焼きはしない。傷つけたくない。特別なんだ。だから――頼む。離してやってくれ。もう二度とマリアンのような花を作らせないと約束する。命にかけて」
“――、…………ホ ン ト ?”
「本当だ」
“――……ウ レ シ イ。アァァ……”
ぎゅ、と胸を掴まれるような刹那のよろこび。
満足の吐息をもらす乙女のようにマリアンが『消失』する。
一輪。二輪。
まだ夜は明けていないはずなのに、白い百合に似た花房は光の粒を散らしながらどんどん落ちていった。
なぜか、泣いていた。らしくもなく感情が引き摺られていた。とっさに結んだ“約束”のせいなのか。
やがて戒めの蔓が力を失う。
シェーラはその場で膝をつき、クロエは、さっとかざしていた両手を左右にひらいた。
「王子!」
「良かった。ぶじね。あら?」
巻き付く蔓をもどかしげに解き、シェーラは駆け寄った。クロエが小首を傾げた原因であろうモノは、眠るように目を閉じるトールがしっかりと握る小瓶にあった。
……見たことがある。たしか先日、似た品をミュゼルもクロエから贈られていた。騒がせた詫びだと。
「月華草のエキスか……? なんで」
「本当にね。困ったかた。そこがまぁ、あの子には堪らなかったのね。わざわざ、これだけは残してあげるなんて」
「まったくだな……」
「立てる? あなた。外に夜空みたいな色男と、可愛い蜂蜜色の子が来てるわよ」
「言い方」
ふっと、あまりの形容に笑いが込み上げる。
クロエは、そんなシェーラにも初めての笑顔を向けた。
「そ、悪くないわ。いまのあなたなら、彼を譲ってもいい。大切になさい。盗人さん」




