9 花の訪い
第二王子トールは植物全般を偏愛している。
もっと詳しく言えば、とくに魔法植物が内包する神秘の魔法構築式に、尽きせぬ魅力を感じていた。
もちろん外見も重要な要素ではあるが。
(外見……)
すうっ、と視線を移す。隣には美女がいる。ゼローナ国内ではまずお目にかかれない生粋の魔族女性だ。
背は、女性にしては高いほうだろう。トールの目線よりやや下くらいか。
きちんとした印象の白い上着はウエストラインで絞られており、そのまま膝下まで優雅な裾広がりのシルエットを描く。中は脚にぴったりと沿う黒いズボンで、爪先の尖ったブーツ。
それらはどこか女騎士のようであり、大地の色の短い髪と暗緑色の瞳の彼女によく似合っていた。
* * *
「――で、ですねトール殿下。先日お話されていた植物への多重保存魔法とその永年維持についてですが………………殿下?」
「! はっ。す、すまない。ぼうっとして」
「いえ、大丈夫ですわ。もう一度ご説明を?」
「頼みます」
きり、と表情を改めて目礼すると、クロエの薄闇色の頬にほのかな赤みがさした。それがやたらと色っぽく、はっきり言って警護の騎士たちは全員『棒』である。
ぼーーっとしている。
当のクロエは気を取り直し、再び目前に広がる公園を含む更地――いずれトールが初代所長となる“ゼローナ王立魔法植物研究所”の建設予定地に向けて、穏やかに話しだした。抑揚をつけすぎない、聞き取りやすく心地よい口調だ。
トールはつとめて冷静であるよう心がけたが、内心は荒れ狂う大海原も真っ青だった。
(〜〜〜、一体どうしたんだ。僕は!?)
生まれてこのかた。
人間の女性に興味を抱いたことなどないはずなのに。(※クロエは人族ではなく、魔族という事実もすっ飛ばして混乱中)
「…………」
そんなトールの変化を見逃さず、ひとりだけ棒にならない護衛もいた。シェーラだ。
シェーラは、みずからの身柄引受人であるトールの公務の際は、たえず側にあって一切余計な口をきかない。プロ意識の固まりとなって気配を消している。なのに。
(……ん? なぜシェーラを)
時おり流される暗緑色の視線。
それとかち合うたび、砂漠の民らしい面差しの彼女は苛立ちを隠せないようだった。
それが、トールの心にも不思議な波紋を投げかけた。
――――――――
昼と。夜と。
何がどう作用して“そう”なるのか。
直接訊く機会をずっと探っていた。
チャンスは意外にも、向こうからやって来た。
「……か。殿下?」
「! 君は」
「しっ、お静かに」
昼間の公務と夕方の会食。それらをこなせば久々に呼び出された父王との面談。さすがに疲れてシェーラには早々に休んでもらった。ここは寝室だ。なぜ。
仰向けに、見慣れた天蓋を背に銀髪の美女がのしかかっている。腕を掴まれているわけではないが、以前見かけたときと同様の薄衣一枚をまとうだけの白い柔肌。どきりと胸が鳴った。
帳のように至近距離に降りて波打ち、光る銀の髪。すべらかな細腕は顔の両側に置かれ、やんわりと固定されていた。
こうして見ると、顔の造りは昼と同じだった。ただ、それ以外のすべてが違う。違っても、それもドリュアドの性としてしょうがないのだろう。
室内にうっすらと差す月光。
潤む翠眼に、言いようのない感情を覚えたが……――辛うじて持ち堪えた。あえてクスッと笑むと、覆いかぶさるクロエは首を傾げた。
「あの。殿下。さぞ驚かれたかと思いますが……何も仰いませんのね。どうやって来たかもお訊きにならないの? それに『私』は、お好みではなかったかしら」
「とんでもない。お陰様で、僕もちゃんと男なんだと自覚が持てました。それはさて置き、貴女は月華草のあるじだ。おそらくは、地上に咲くすべての月華草に通じている。違いますか」
「ふふっ」
トールは、自由に手を動かせるのを良いことに隣室の月華草を指さした。
推測の域は出ないが、十中八九間違いないだろう。
彼女はあれを媒介にここに現れた。自分の寝台に。
クロエは可憐に妖しく微笑むばかりで何も答えなかったが、嬉しそうだった。嗅ぎ慣れた花の香りがいっそう濃く立ち込め、横になっているのにくらりとするほどだった。
伏し目がちな長い睫毛。夢にまでみた存在が、うっとりと顔を寄せる。
ゆっくりと。
ことのほか艶めかしく。
吐息が絡み、唇が合わさった――――瞬間を、トールは逃さなかった。
ガリッ
「!?」
「うぅっ……苦い。なるほどこれは効く。やばい、自分で調合しときながら…………不っっ味。泣けてきた」
「っ、こふ、げほっ!」
「ごめんね、大丈夫? クロエ殿。でも、正気に戻ったでしょう」
「あ、う。トール王子……っ……、なぜ」
咳き込むクロエの背を、半身を起こして撫でてやる。
覚えのある理知的な双眸に、ほっと息をつく。「だって僕も、君とは『話』がしたかったんだ。言葉のない、体だけの繋がりじゃなくて」
「!!!」
クロエは震えながら、ほろりと大粒の涙を流した。
以前、ルピナスに渡した強烈な気付け薬は、じつは普段から奥歯に仕込んである。
王族たるもの云々ではないが、魔力の膨大なゼローナ王室にあって、なお規格外な魔力量を抱える自分は、あらゆる事態に備えるべきではと感じていた。
よって、十七の歳に自分で施術した。
媚薬や催淫剤などで、うっかり婚外子を作らぬように。
優しく背を撫でるうちに、しゃくりあげていたクロエの体がぼんやり透ける。
月光よりも淡く溶け、かき消えてしまう。
薬の効果で一時的に『昼のクロエ』の意識が勝ったのかもしれない。
それを良かれとも残念とも思いつつ、ふと、扉の向こうに声をかけた。
「やあ。居るんだろシェーラ? もう平気だよ。お客様は帰った」
「(……よく、わかったな)」
ずいぶんと奥ゆかしい。
扉を開けず、そのまま話すので声が遠い。
それでも答えがあることに安堵した。
「そりゃあ、僕だからね。君の気配なんかすぐわかる。君が、こういうときは律儀に起きてくるわりに、踏み込むべきかずっと迷ってくれるだろうことも」
「(………………)」
黙り込む彼女が面白くて、ふざけてみたのは気紛れだった。
「なんならこっち来る? 君さえよければ」
「(ッ!!!? 阿呆か!! くそっ、心配して損した! 永眠しろ馬鹿が)」
「おおっと」
罵倒したあと、すたすたと去る気配。
そのくせ、足元のメモなどは踏まないよう注意してくれている。その心配りに顔がにやけてしまう。
そうして、唐突に気づいた。
(あ)
「これは。まさかの、まさかか……?」
呆然と呟く。
そっと、銀色の訪いびとと重ねた唇に指で触れた。
――その、胸に落ちた衝撃を。




