2 トールのお願い
時は遡って早朝。
すっかり衣服を整えたトール王子のみごとな金髪が一歩進むたびになびき、窓辺の光を弾いた。そのまま、手ずから大切に育てている花々に水を遣ってゆく。魔法による散水だった。
それを、ほうぅ、と溜め息まじりに招かれた令嬢が眺めている。
「綺麗ですね、トール殿下」
「ありがとう。やっぱり、話のわかる子はいいね。君、見どころあるよ。水遣りしてみる?」
「いいえ。お言葉はありがたいのですが、水魔法は加減がわからなくて……。ご遠慮申し上げますわ」
「そう」
残念、とトールは笑った。
すい、と視線を彼女の隣に滑らせる。
「君は? ルピナス。如雨露もあるけど」
「なんで、私は率先して働かせる方向なんですか……こう見えても、貴重な休暇中なのですが」
「ああ。今日、正式な婚約調印だっけ。おめでとう二人とも」
「ご祝辞ありがとうございます」
にこりと微笑む天使の美貌に、これまた姉である王太子妃そっくりのうつくしい顔でルピナスが応える。傍らではミュゼルが頬を染めて膝を折り、淑女の礼をとった。
…………その一連を、いまやゼローナ風の男物衣装に改めた異国の元暗殺者・シェーラが達観の表情で見つめている。
シェーラは、やれやれとゆるく首を振った。
『茶番だな。さっさと用件を言えばいいのに』
「?」
「あら」
シェーラの話す異国の言葉――アデラ語に、ルピナスは眉をひそめ、ミュゼルは目をみはる。
二人の真っ直ぐな視線にさらされ、警護よろしく壁際に立つ女性は、ふいっとそっぽを向いてしまった。
くすくすとトールが笑い声をあげる。
「ミュゼル嬢、彼女のいまの言葉、わかった?」
「はい。アデラ語の系統で間違いはないのですが、くせが。おそらく、彼女の出身地ジハーク・オアシスの古語ですね。“茶番だ”、“さっさと用件を言え”と」
「へー?」
「――っく! これだから、上流の癖に博識なお嬢さんは」
「あらあら、まあ!?」
貶されるように全力で褒められ(※た、ように感じた)ミュゼルは頬を片手で押さえた。もう片方は無意識に隣のルピナスの腕に伸びている。軽く触れて、振り仰いだ。
「聞いた? ルピナス」
「うん。聞いた。まっとうな評価だと思う」
「あ、ええと」
うっかり相思相愛者特有の薔薇色の空気を撒き散らしそうになり、いまだ相手がいない(※見つけようとしていない)この部屋の主を慮る。
こほん、と咳払いをしたふっくら体型の少女は、再びトール王子に向きなおった。
トールはちょうど散水を終えたところで、瑞々しさを取り戻したばかりの葉を手に取り、熟練の職人のようなまなざしで葉脈までも観察している。
ミュゼルは、しばし沈黙を守った。
やがて、床に直置きされて天井近くまで伸びる蔦の花々のところへ移動した王子は、今度は花弁の手触りをうっとりと確認しつつ、唐突に言葉を紡いだ。「お願いがあるんだ」
「……はい?」
来たな本件、と身構えたミュゼルに、なぜか後ろからシェーラの嘆息が届く。
騎士としての癖なのか、ルピナスは居住まいを正し、わずかに握ったこぶしを胸に当て、王族の命を拝領する際の姿勢をとった。
トールは――信じがたいことに、恋をするひと特有の潤んだ瞳を二人に向けた。
「最近、うちの迎賓館近くで夜、『妖精』が出るんだ。なんとかして彼女を捕まえたい。それから」
「そ、それから?」
突拍子もない流れに、ルピナスもミュゼルもごくりと唾を飲んだ。
トールは、あとの部分はさらっと事も無げに告げた。
「うちの助手君、最近反抗期でね。虫の居所が悪いとすーぐ、さっきみたいに古語を使うんだ。ミュゼル嬢、きみ、昼間は社交の片手間でいいから僕にそいつの言葉を通訳してくれない?」
「は」
『…………ふざけんな、くそったれ王子』
「殿下。それは。陛下には……?」
ぽかん、と口を開けたミュゼルの台詞を遮り、なるほどシェーラの悪口雑言が飛び出す。
なんとなく意を汲みつつ、ルピナスが助け舟を試みた。
トールはこくりと頷いた。
「陛下の許可は降りてる。ミュゼル嬢の警護はルピナス、君に任せるそうだ。――本意だろ? 昼も夜もなく、婚約者殿といられるよ」
きらきらと、朝日よりもまぶしいほほえみの王子だった。




