誓いをあなたに(前)
その日、王都は大変過ごしやすく、穏やかな天候に恵まれた。
暦は九の月の初め。
夏が過ぎるのを今か今かと待ちわびた民たちと、貴族たちと。
そうして当人たちにとっても、またとない特別な一日が。
――ゼローナ王国王太子サジェスと北公息女アイリスの盛大なる式典“成婚の儀”が。
今このとき。始まる。
* * *
慣例として各貴族家には象徴とする色がある。
王家は白や紅。北公家は濃紺。南公家は翡翠。そして紺碧の海を戴く海運国だった東公家は、暁光に染まる海の色――華やかなマゼンタを。
「準備はできたかい、ミュゼル? そろそろだ」
「ええ。お父様」
支度を終えてさらりと縫い付けられた銀糸のマントを翻す。正式な作法に則って肌の露出を抑えたドレスは規定通りに丈が長く、袖もたっぷりと布を使って床まで届くもの。
肘上までをぴったりと覆う絹の手袋は三公家に許された飾りのない純白。
綿あめのような髪は一筋の後れ毛もなくきっちりと結い上げ、編み込んでまとめている。
歩くたびにきらきらと光を弾くのは耳朶や首元を飾る、シンプルで良質な紅水晶だ。
自室からそろりと出た娘に、父であるエスト公ミュラーは満足そうに「ほほう」と呟いた。
「綺麗だね。まるで、今日はお前まで嫁いでしまうようだ」
「あら」
「――馬鹿なことを言ってないで。ほら、さっさと行きますよ父上。おいでミュゼル」
娘の手を推し戴く父に、階段の途中に立つレナードが呆れながら声をかける。
ミュゼルは淑やかに返事をしつつ、改めて本日の一家の装いを眺めた。
当主であるミュラーの上着がもっとも深く、海老茶に近い色。嫡子のレナードの上着は紅がかった紫。
ちょっと変わった格式ではあるが、正式な場においては、貴族のまとう衣服の色はそれぞれの血筋や階級で濃淡が決まる。ゼローナ貴族規範で厳重に定められた色彩序列だった。
(ルピナスはジェイド公爵家の嫡子だから…………きっと、あざやかな紫紺ね。いいな。似合うだろうな)
こっそりと考えてしまうのは、今日もっとも気になる相手のこと。
大神殿の儀式では、彼は近衛騎士ではなく北公嫡子としての列席が義務付けられる。
ミュゼルは『その瞬間』を、ありありと思い描いた。
天井の高い空間を何本もの円柱が支え、祭壇は主神をあらわす光の芒星を象ったステンドグラスが彩る。
ドーム型の天井そのものからも自然光は差しており、真ん中に敷かれた真紅の絨毯の道は正装に身を包んだ新郎と新婦だけのもの。
二階の聖歌隊席から厳かな歌声が響くなか、それは、この国の貴族としても乙女としても心の躍る瞬間だった。
たぶん、控室や移動の合間、ひいては儀式を終えたあとの王城での宴でもルピナスと話す機会はいくらでもある。
そのときの素直な気持ちを伝えよう――
そう、決めていた。
祝福に満ちた今日という一日にあやかり、背を押してもらうつもりで。
ミュゼルははっきりと高揚する気持ちを抱え、さほど遠くもない会場に向かう馬車へと乗り込んだ。
――そんな安直なことを考えていた時期がありましたよ、と、ミュゼルは笑顔の裏でひしひしと告解した。(※誰に)
構造上、大貴族の集う控えの間は文字通り各地の大物とその令息令嬢らが詰め寄せており、広さとしては申し分ないものの、すでに社交という名の戦いが始まっている。
“ぜひ我が家の娘を”と、目当ての子息めがけて突撃する父娘もいるくらいだ。
見目麗しく、将来性は群を抜く二人――ジェイド公爵家のルピナスとエスト公爵家のレナードのもとには、現在、まさにそんな人垣が出来つつあった。
(遠いなあ……。嗚呼、甘かったわ)
不本意ながらミュゼル自身もあちこちの令息に取り囲まれている。
ちなみに三公のうちカリスト公爵家だけは、どの子も婚約者が決まっていたため、のびのびとしたものだった。羨ましいことこの上ない。
何とかチャンスを作れないか。
扇の内側に口元を隠し、そわそわと機会を伺っていると、ふと出入り口が騒がしくなった。
見ると、近衛騎士の一人が難しい表情で入室し、ルピナスに近づいて何事か耳打ちしている。
そこでようやく―――なぜか、ばちり、と目が合った。
「失礼、ミュゼル殿。ちょっといいだろうか」
「はい? 何でしょう」
足早にこちらに歩み寄ったルピナスは、さっと傍らのミュラーに目礼して告げる。
「問題というほどの事態ではないんですが……、神殿側で少々困ったことが。ご息女をお借りして宜しいでしょうか? 仔細はのちほど」
「なんと、それは。うちの娘で力になれることがあるなら、どうぞ遠慮なく連れて行ってください。今日の佳き日、主神の加護があらんことを」
「主神の加護があらんことを」
一礼して作法通りの挨拶を交わした二人は、すぐさまミュゼルに移動を促した。
(???)
その場の空気に合わせておっとり頷いてはみたものの、ふつう、こんな土壇場で神殿側に何らかのトラブルが起きたのだとしたら大問題だ。
淑女にふさわしい所作を心がけつつ逸る胸を抑える。
通路に出て案内を受けるままに回廊を抜け、主会場二階の聖歌席よりもさらに上、三階に相当する魔法管理席に誘導された時点で、とうとう目を白黒とさせた。
ミュゼルは、小声でルピナスに問いかけた。
「ルピナス。どういう」
儀式前の空間は静かで、人っ子一人いない。関係者たちは打ち合わせなどで席を外しているのか。
怪訝そうな顔の少女に、紫紺の上着に儀礼用のマントを付けたルピナスは、くるりと振り返った。
その顔は――驚くべきことにすぐ見えなくなった。
反応する暇もなかった。手を引かれ、あっという間にぼすん! と、抱きすくめられてしまったからだ。
そのまま髪を乱さないよう絶妙の力加減で拘束され、耳元に精悍な頬を寄せられる。
「まったく、きみってひとは。
見てられない。油断も隙もない……!」
ラストエピソードが前後編になってしまったことをお許しください(震え)




