51 その、胸の高鳴りを
――――夢かな。夢でもいい気がする。
正直、ルピナスから向けられたまなざしも語られた言葉の一つ一つも、ふわふわと甘くやたらと熱くて、心の奥では受け止めきれていない。
あれから出立の際はルピナスの馬に横座りで乗せてもらったが、なし崩しに片手で腰を支えられ、上半身を容赦なく抱き寄せられてしまった。
つまり、日よけのヴェール一枚を挟んでの 完 全 密 着。
『朝から何時間もゼオン殿と……? そりゃあ疲れてるに決まってる。寄り掛かっていいよ』などと息をするように甘やかされ、事実そうだったために、ついつい体重まで預けてしまった。
あのときは本当に後悔した。
――……冗談みたいだが、ときめいて死にそうだったのだ。
(なんなの……!? あのひと、もっと朴念仁じゃなかった?? どうして、あんなに女の子の扱いに慣れてるの!!)
理不尽な羞恥に悶えながら帰邸後、疑問が解けたのは皮肉にも夕食時。
同じようにぐったりと疲れた様子のレナードと語らい、互いの一日を報告し合っていたときだった。
――――――――
「今日はね、アイリス様が存外に強かでいらっしゃるのがわかった。ある意味、最大の収益だったよ」
「あら? てっきり、たくさんの令嬢の釣書をご覧になれたのが最大の収益だと………違うの?」
「ちがう」
いちおう、父の命で南公の元に赴いたところまでは正確に伝えた。
食欲はあまりなかったので、オニオンと香草のスープや魚介のマリネのみ、少量を取り分けていただいた。
それを肴にちびちびと白ワインのグラスを傾けていると、ほんのり兄を揶揄う余裕が生まれたことになる。兄様々である。
いっぽう、レナードは彼の備える美徳そのままに正直に目をすがめ、「ミュゼルは、関心の全くない貴公子たちの釣書をえんえん見せられるのがお好みなんだね?」と、問いかけてきた。
もちろん、答えは『否』だ。
きゃらきゃらと笑って謝罪する妹に、つられて苦笑を浮かべたレナードが述べる。それは、レナードから見たアイリスとルピナスの関係性と呼べるものだった。
ゼローナの貴族界隈では有名な“北の導べ星”と名高い、うつくしい双子は。
“――アイリス様は一見たおやかで、吹く風にも耐えられない風情がある。じっさい、北公領にいらしたときは体が弱く、表に出ることは稀だったそうだね。
そして、それを補うように立ち回り、臥せりがちな姉君に外のことを話したり、外部との仲介を果たしたのが彼だった。
つまり、彼の為人で一番の武器は腕っぷしの強さじゃない。あの、おそろしく万能な対人能力と折衝力なんだ。
王太子妃となられるアイリス様にも同じ傾向があってね。殿下が自由闊達で奔放なぶん、周囲を置いて行かず、手堅く物事を進めてくださるのが助かる”
……と。
「だからねミュゼル。大変、非常に、いけ好かない相手ではあるんだが」
「お兄様」
食事を終えてナプキンで口元を拭った兄が、カタン、と席を立った。
ミュゼルもあらかた終えている。ただ、口寂しさにワインがすすんでいただけで。
レナードはいかにも不服そうに、悔しそうに言葉を選び選び、つっかえながら続けた。
最終的には妹のことだけを案じて。
「ルピナス殿なら、きみを任せてもいいと判断する。エスト公爵家嫡子として。きみの兄として。――さ、これはもう終いだ。残りは僕が部屋で飲むから、ぜんぶ寄越しなさい」
「え? ……あっ」
ひょい、とテーブルにあった深緑のボトルを奪われ、思わず声を上げる。すかさず給仕係に夕食の終了を告げてしまうのだからどうしようもない。
見かねたレナードは長卓の反対側へと回り込み、とうとうミュゼルの椅子を引いて優しく立ち上がらせた。
ふう、と息をついたミュゼルはうらめしそうに、上目遣いで兄に物申す。
「……お兄様のばか。最後まで反対してくださると思ったのに」
「なんだ。結婚したくなかったの? それならそれで」
「!! お兄様!」
「あははははっ」
ぽんぽん、と頭を撫でられて膨れるエスト家の末娘を、控えの家令も給仕たちもみんな、微笑ましく見つめている。
寝室まではレナードが送ってくれた。
魔法の灯火がゆらゆらと点る手持ち燭台を片手に扉を開け、控えの侍女を呼ぶ。
そうして身柄を託したあと、思い出したように付け加えた。
「――あ、そうだ。結局、父上とは王城で会えたんだけど。含蓄深そうにうんうん頷きながら言ってたよ。『うちとしては、婚約はいつでも受けられる。無理に進めることはない。ミュゼルの気持ちを大切に』って」
「……お父様が……?」
「正確には母上が」
「!! っ、……ふ、ふふっ! そっか、そうよね。納得だわ。さすがはお母様。よかった」
酒精がいい感じに回ってほわほわと笑うミュゼルに、何とも言えない顔をしたレナードは、妹の頬におやすみのキスを残して去って行った。
留学する前の習慣だった。幼いころのように。
――――そんな兄が格好をつけて部屋に戻ったものの寝付けず、やけ酒が過ぎてしまい、幼なじみの執事に猛烈に叱られる羽目になったのは、また別の話……。
* * *
翌日。
休暇のために一日だけ北公別邸まで宿下がりしていたルピナスは、想いを告げた少女からの手紙が届き、取るものもとりあえず中身を開封した。
“親愛なる友 ルピナス様”
“お気持ちはもったいないほど、よくわかりました”
「友、か……」
声がしょげるのは致し方ない。それでも気力を奮わせて文字を追う。
が、最後の一文でどきりと胸が高鳴った
朝日が注ぐ窓辺で夜色の瞳をみひらく。
“きたる祝典の日。王太子殿下と、あなたの姉上の婚儀のあとで”
“よくよく考えた上でお返事したいと思います”
“――――あなたを想う ミュゼルより”




