50 湖畔のキス
遠回りをしたようでその実、一番の近道を選んだのだと思う。目の前には探していた少女がいた。気がつけば、ぽかん、と口をひらいたままの彼女の手を握りしめてしまい。
勢い込んで乗り込んだものの、視界の端には椅子に深くもたれた初老の紳士――南公ゼオン・カリストが見えた。それに。
(アーシュ。……ヨルナ)
ちらり、と、二年前と変わらない呼称が脳裡を掠めたが、今ここで彼らをそんな風に呼んではいけない。
彼らはいずれ四つ目の大公家の祖となる人物だし、流れた時間の分だけ、自分たちにはそれぞれの立場ができた。
柵の少なかったあの頃の記憶は鮮やかで、ふいに刺さりもしたし、支えにもなっている。もちろん大切ではあるけれど。
何より。
あのときと違うのは――かけがえのないもの。
守りたいと思った。誰よりもそばにいたいと思った。
触れたい。こちらを見てほしい。
がむしゃらなくらいに欲してしまった気持ちそのもので。
でも、いまは。
「……」
一つ深呼吸。肺に、新鮮な空気を充分満たしてから瞳を開けた。
息を整えたルピナスはわずかに体の向きを変え、左手でミュゼルの左手を捕まえたままで古城の主に一礼する。
「――申し訳ありませんでした、ゼオン殿。然るべき手順を飛ばしてお邪魔してしまいましたが、ご覧の通り、のっぴきならない理由がありまして」
「だろうね。聞くだけ野暮かもしれないが、用向きは彼女に?」
「はい。このまま退出を願い出ても?」
「おやおや」
「! ゼオン様。わたくしは……っ」
反射で、ぐっと腕の中の手に力がこもり、逃げそうになるのをしっかりと繋ぎ止める。視線を遣ると絶望的なまなざしを向けられたが、はっきりいって口元は微妙な形だし、目元は潤んで頬が赤らんでゆくしでまるで説得力がない。
――うん。
もういい。もういいや。とにかく連れ出そう。でないと、ややこしい奴に茶々を入れられるに決まってる。
話の分かる南公閣下は面白そうに瞳を輝かせたあと、ちいさく片手を挙げた。
「いいよ。責任持って、彼女を王都東公邸まで送って差し上げるといい。ではね、ミュゼル殿。兄君によろしく」
「ありがとうございます、ゼオン殿」
「えっ!? あ……、ええ?」
強引に場を仕切る北公子息殿につられて退出の礼をしたミュゼルは赤くなったり青くなったり、余計に狼狽えた。
去り際、ばちりとアストラッドと目が合う。
「久しぶり、ルピナス。相変わらず……でもないか。“おめでとう”は、まだ早い?」
「こんにちは、アストラッド殿下。ええ、ぜひ。そうしてください」
「わかった。じゃあねミュゼル嬢。がんばって」
「〜〜そんなッ? な、何を……??」
ひらひらと手を振るアストラッド。
なぜか、目をきらきらとさせて祈るように手を組むヨルナ。
完璧に相思相愛な一対の旧友たちに見送られ、二人は今度こそ応接間を退出した。
* * *
南公が所有する古城を出ると、すぐ近くで青い湖面が真昼の光を弾く。
東公家の馬車では御者が気を揉んだ様子で二人を迎えたが、同乗して行かれますか、との問いに、ルピナスは首を横に振った。
「いいや。南公閣下からのお許しもいただいたから、私が彼女を送ろう。先に戻っていてくれ」
「それは――左様でしたか。畏まりました」
「!?」
御者にまで暗黙の了解のような態度をとられ、ありありと戸惑いを表情に浮かべたミュゼルが見返してくる。
ルピナスは、改めて公女ぎみにエスコートを申し出た。
「ということで。観念して捕まってくださいませんか、ミュゼル? あちらに私の馬を繋いであります。何しろ慌てていましたので、相乗りになりますが」
「………………はあぁ……、もう。選択の余地はないのでしょう? あいにくと遠乗りの格好ではないけど、いいわ」
嘆息したミュゼルは、ここぞとばかりに御者から日よけの薄いヴェールを渡され、がくりと肩を落とした。
ルピナスの愛馬は湖畔の若木の一本に繋がれつつ、下生えを食むのに一生懸命だった。顔を見合わせた二人は、何となくほほえみ合う。
「……けっこう、走らせたからなぁ。せっかくだから少し散歩する? 天気もいいし」
「いいけど。でも、本当にどうしてここがわかったの? 家令が教えるわけがないわ」
「いい家令だよね。うん。巌のようだった。ひとまず帰ると見せかけて、馬屋に寄ったんだ。顔見知りの馬番がいたから、それとなくきみが好んで行く場所を聞いて」
「まあ!」
さすがの人たらしと言うべきだろうか。
ミュゼルは憤慨しつつも諦めの境地になった。
自分が行きそうな場所――市や流行のカフェは見て回ったものの、それらしき令嬢はいなかった、と、淡々と述べるルピナスに罪悪感が湧く。
湖はさほどの広さはないが、ここを一周しては時間がかかり過ぎるな――
そう思い始めたとき、ふいにルピナスの歩みが止まった。
見上げると、木漏れ日の下を選んで歩いてくれていたのだと気づく。じっと見つめる瞳がこわいほど真剣で、エスコートされていた手を胸元に引き寄せられ、ミュゼルは硬直した。
「あああの、ルピ……」
「きみが。もし、私を少しでも意識してくれているなら、『私にだけは教えるな』と言った言葉に意味があると思ったんだ。それで、昨日の夕方から南公が滞在するこの城だと。当たっていたってことは、……ちょっとは期待してもいいってこと?」
「期待って」
「私を、男だと思ってくれているか」
「! あっ、当たり前でしょう!? 顔はそんじょそこらの女の子よりよっぽど綺麗だけど、あなたは、どこから見たってちゃんと男性だわ」
「…………よかった」
「へ?」
急に泣きそうな顔になられて、こちらのほうが困る。
――なんというか、距離が縮まっているし、背中に木が当たりそうなんですが。
そんな諸々を吹っ飛ばすような呟きが目の前の令息から漏れた。
「きみが、好きだ」
「っ……!!?」
「どうも勘違いされてるみたいだけど、いまの私が心から欲しいのは、きみだよ。ミュゼル」
「え。だって、あなたはヨルナのこと」
「二年前だね。しかも、恋心を自覚してすぐにアストラッド殿下と張り合って、みごとに玉砕した。――そっか、やっぱり気づいてたんだ」
「当然よ。いちばん近くで見てたもの」
「うん。ありがとう」
ほんのりと微笑するルピナスがなぜか、ひどく切なく見えて、ミュゼルも空いた手でみずからの胸を押さえる。
どき、どきと鼓動が収まらない。
とん、と、背中に幹が当たってしまった。水辺を渡る風の音。頭上で葉が揺れる音しか聞こえない二人ぼっちの空間で、息ができているかも定かじゃない。
まるで溺れているみたい。
ルピナスの、少し乱れた頬の横の髪がさらりと傾ぐ。
覗き込まれているのだとわかって、盛大に身じろぎをした。
ルピナスは真顔のままだった。
「……こんなに、きみを可愛いと思ってしまうのは私だけでいいと思う」
「すみません、言ってる意味がわかんないです。全然ついて行けないんですが」
「いいよ。じっくり考えて。攻めるのは得意だから」
「! 何それ、何の話っ!? 剣術とかじゃないわよね?」
「もちろん。きみだけのことを話してる。ね、ミュゼル」
「……なんでしょう?」
近い近い近い。
ちょ、本当に勘弁してほしい。
前は記憶がなかったし、ぼうっとしていた。けど、今日はばっちり覚醒していて、この上なく相手を意識してしまっている。
かつ、いろいろと言われ過ぎて――好き? 好きだと言ったの? わたしを??
混乱の極みは、恭しくもたげられた右手の指先に、温かな感触が触れたことで沸点に達した。
「ルピナスッ!!?」
「本気だから。今日は、私の愚かさを戒めるためにも『これ』で我慢する。でも、今は、自分の意志できみに触れたい。――許されたいと願ってる。覚えておいて」




