47 ミュゼルの叫び ☆
「死ぬ……! 死んじゃうわ!!」
「お、穏やかじゃないねミュゼル。どうしたの」
「お兄様」
帰邸早々、ミュゼルは転がらんばかりに悶えていた。
馬車を降り、かろうじてエントランスまでは堪えたものの、自室に辿り着くまでの大階段では、とうとう叫んでしまった。
周囲のメイドたちは明らかにびくっと肩を揺らしていたし、階下の食堂からは薄手のグラスが割れる繊細な破砕音が響いた。
ごめんなさい、と心で(※そこは声に出せない)謝罪し、とぼとぼと項垂れて今に至る。
二階である。
ミュゼルは、はた、と顔を上げた。
落ち着いた内装の館の廊下はきれいに拭き清められ、ところどころに季節の花が飾られている。
そこには滅多に訪れることのない嫡子や末娘への、筆頭家令以下約六十名におよぶ屋内使用人たちによる、心尽くしの歓待がにじみ出ていた。
ふわふわとした細かな黄色い花弁の雲の向こう側に自分と同じストロベリーブロンドを認めて、ふにゃりと顔を歪めてしまったのは失策だったかもしれない。
が、時すでに遅し。
これ以上ないほどに心配でたまらない――と、言わんばかりに兄の眉が寄せられる。
よって、つかつかと無言で近づかれ、やはり無言で抱きすくめられた。
「?? に、兄様……?」
「可哀相に……! どうしたんだ、ミュゼル? 今日は妃殿下の茶会だったろう。仲良しのアイリス嬢はともかく、きみに意地悪できるような令嬢がいたとは思えない。さ、言ってごらん」
「――っっ、ぷはッ。『できる』って……、ひどいわお兄様。『可か不可か』という基準でしか、ひとをご覧になれないのね?」
「間違っていたかい?」
「いいえ」
くすっ、と目尻に涙をためつつ微笑む妹に、レナードもようやく笑みを見せた。
「じゃあ、きみが世を儚みたくなる理由をきちんと教えてもらおうか。お茶はもうたくさんと言うなら、飲まなくてもいいよ。おいで。とっておきの気分転換がある」
「とっておき…………。何?」
にこりと双眸を細める兄はいたずらっ子そのままで、ミュゼルは、きょとんと呆けたあとで問いかけた。
連れられた当主執務室で、『気分転換』の意味はすぐに知れた。
* * *
エスト公爵である父は、一年の半分を王都邸で過ごす。
よって、そこそこの量の通常業務がある。
ふだんなら、留守の際は家令が報告書込みでそつなく仕上げている。
関連商会の歳入歳出帳簿。
相場の変動確認表の記入に分析。卸の段階で各商店に少しでも安く良いものを流通させられないか。
顧客リストやブラックリスト、商売敵の動向管理――とにかく多岐に渡る。
今回、当主代理として王都入りしたレナードは、初日以外はずっとこれらの難題と向き合っていた。
そういえば、ここ二日ほどは朝食も一緒に摂れていなかったことに気づく。
ミュゼルは申し訳なさそうに手近な帳簿を選び、パラパラとめくった。
黒塗りの浅い箱に『未処理』というラベルが貼ってあったので間違いはないだろう。ところどころ挿まれた紙付箋にはチェックすべき項目の伝票綴りの番号が振ってある。――よく仕込まれている。
奥の窓側にある当主の机にはレナードが。
壁を背にする補助机にはミュゼルが掛けた。
そうして十分経過。紙をめくる音とペンを走らせる音。新たな書類を取っては積み、積んでは取る音がかさなるなか、兄妹はすっかりエスト家特有の『気分転換』に没頭できていた。
妹はリズミカルな事務仕事で。
兄は退屈な数字合わせの片手間に知りたかった別情報を得るという、ある種両極端な技を。
王城での、アイリスが教えてくれた事件の顛末とルピナスの求婚を語り終えたミュゼルは、いかにも一仕事終えた、という風情で吐息した。
いっぽうのレナードは「……お兄様、呼吸してる……?」と妹から尋ねられるほど微動だにせず、紙面に視線を落としたままで呪詛めいた言葉を吐いた。
「○○[ピーーー]ったれ……。○[ピーー]ねばいいのに」※公共良俗に配慮し、伏せ字となっております
「お兄様!」
「だって、そうだろう? きみは奴が好きか?」
「それはっ」
「――僕は、嫌いだ。大嫌いだね。涼しい顔をして立ち居振る舞いまで麗々しいと来ている。おまけに剣の達人で、押しも押されもせぬ北公子息。騎士と民から慕われ、王太子殿下の覚えもめでたい。あれじゃあ、行く先々で女性によろめかれかねない。場合によっては男でも、だ」
「それ、褒めてらっしゃる?」
「もちろん、貶してるんだ」
「そう」
一転、しゅん、と肩を落としたミュゼルからは、恋する乙女の憂いしか見いだせない。レナードは余計にムカムカと目線を険しくした。
――が、続くことばの切なさに、徐々にイラつきの炎を鎮火せざるを得なかった。
大切な、ミュゼルが。
ほろほろ、ほろほろ。
涙ではなく言葉で心をこぼしている。
そのことに否応もなく胸を打たれてしまった。
ここに奴がいればいいと思った。
絶対に聞かせるもんか、とも思った。
その、ことばは。
「彼は…………、どうしても血筋や姿の秀麗さでひとの耳目を集めるけど。そうではないのよ。春に再会して、やっとわかった。
あのひとは、いつも、いつも真っ直ぐで、そばで見ていたら胸がしめつけられるほどに綺麗なの。
そして、強いわ。
自分がいま何をすべきか、どうすれば大切なひとを助けられるのか、いつも、そんなことでいっぱいなの」
「ミュゼル」
かたり、と、ペンを置く音が聞こえた。
ちょうど未処理の箱を一つ、すっかり空にしたミュゼルの手元からだった。
顔を上げたミュゼルと書類を支えたままのレナードの視線が結ばれる。
――――侵し難いほどの静寂。
(!)
息を飲むほどの透徹。驚くほどの毅さと柔らかさをそなえて、ミュゼルは、ふわりとほほ笑んだ。
「お兄様。わたし、あのひとが好きよ。だから…………あのひとの言う『本気』が、本当の『好き』でなければいやなの。お応えしたくないわ」




