43 囮の姫、思案のふたり
「大変だよぉ! ねえ、聞いたかい」
「え? 何が」
「何って。なんでも、お城のお姫様がさぁ……」
数日後。
城下のそこかしこでそんな会話が交わされるようになった。
“噂”はしかし、好奇の顔で囁かれはしなかった。ましてや侮蔑や落胆でもない。元々、さほど丈夫ではないとされた大事な姫君への純粋な心配がそこにはある。
――アイリスは民に愛されている。
彼女が『お姫様』と呼ばれるのにも理由がある。
王太子サジェスとは短いながらも婚約期間中であるため、まだ『王太子妃』と呼べないのが一つ。
もう一つは彼女の実家に起因する。
歴史を紐解けば、北公領は古くは由緒正しい独立国家でもあったし、現在のジェイド公爵そのひとも稀な女将軍として名高く、威厳に満ちた人物だ。その息女とあれば当然王家に次ぐ名家の姫とみなされる。
しかも、彼の女ときたら輝くばかりの美貌に加えて女神の如き慈しみにあふれ、神殿や孤児院では率先して喜捨や奉仕活動を行う令嬢の鑑でもあった。
それで、“アイリス姫がご公務の最中に倒れられた”という噂は、下町の隅々まで瞬く間に広まっていった。
* * *
「本当によろしいの? アイリス様」
「いいんです、ミュゼル様」
街の賑わいも喧騒も遠い王城の一室。
窓からの微風が心地よい二階の寝室で、部屋の主は寝台の住人となっている。
“寝ついた”とされて今日で三日目。念のため日中は部屋から出ておらず、こうして寝間着で大人しく過ごす徹底ぶりだった。
ミュゼルは思案げに眉をひそめる。もちろんアイリスを気遣ってだ。国王陛下と王妃殿下には真相を伝えてあるそうだが。
「理不尽ですわ。貴女はちゃんと、来たる日にそなえて公務も早々にこなされていたのに。世の中、善人ばかりでもないのよ? 性根の曲がった連中から軽んじられやしないかしら」
「ミュゼル」
寝台の横に付けた椅子に腰掛け、口を尖らせるミュゼルに側に立つルピナスが苦笑をこぼす。
貴族の娘として、はからずも栄誉と困難の両方の極みに位置する姉をこうまで堂々と気遣ってくれる存在はありがたかった。
もちろん、無条件に仕草が可愛いのを含めてまなざしは緩くなる。
アイリスは「まあ」と目をみはった。
「昔みたいに、意地悪な令嬢がいっぱいだった頃のことを仰ってるのね。ありがとう。たしかに、そんなかたが王都近郊に居ないことは無いですけど」
「でしょう?」
おっとりと首を傾げ、扇子の影で、ほうと息をつく。
礼儀規範に則りつつも真剣なそのさまが、彼女のいう“善人”の極みのようなかただな……と、アイリスは口元を綻ばせた。
「本当に、大丈夫ですのよ。そろそろお休みが欲しかったのは事実ですし」
「まあ!」
ころころと可愛らしく笑む未来の王太子妃に、ミュゼルは蜂蜜色の瞳を大きくみひらいた。
「それならいいのかしら」
「いや。でも姉上――アイリス。言わせてもらうが、近辺の警護が手薄過ぎる。例の女は相当の手練だよ? 護身の魔法を使えないきみ一人じゃ心配だ。殿下は何をお考えなんだか」
「ルピナス」
一転、部屋が人払いした状態なのを見越して口調を元に戻した弟に、寝台で背にクッションを当てて体を起こした姉が微笑む。
しゅるり、と、枕元で丸くなって昼寝中の猫の背を撫でた。
「一人じゃないわ。この子もいるし」
「アイリス……。はぁ、まあいいや。それはそうとミュゼル? きみは魔法をどれくらい使えるんだっけ」
「え。わたし?」
かなり今更な質問に、ミュゼルは目を瞬く。
エスト家は、古くは大海原を自在に行き来する海運国の主だった。そのせいか、血脈の人間は風を操るわざに長けている者が多い。兄のレナードも、ミュゼルもそうだ。
ルピナスは、こくり、と頷いた。
「知っての通り、私は剣技と体術中心でしか立ち回れない。いざ、あいつが来たときに取れる手札は把握しておきたいから」
「ああ。そういうこと」
それなら――と、滑らかに始まる魔法講義。簡単な打ち合わせを経て、ルピナスはにやりと笑った。
――戦闘狂だなぁと、今度はミュゼルが苦笑する番。
正直、戦いになどならないほうがいい。
シェーラが来るとしても、自分が居合わせられる可能性は極めて低い。おまけに、下手に接触してしまえば『あのとき』エスティアで取引をした娘だと気づかれてしまうではないか。
そのことを話すと、ルピナスは少し考え、ちょっと伏し目がちに視線を逸らせた。
口元を手で覆う仕草に、はっとする。
(! しまった)
はわわわ、と、淑女の仮面をどこかにやってしまったミュゼルが慌てて言い募る。
「えっと、あの、その記憶はすみやかに忘れたほうがいいと思うわ!」
「え。無理」
「〜〜ッ、そ、そんなに……???」
「何なに? どうしたの、二人とも。真っ赤だわ」
「アイリスは黙ってて」
「えええ……」
さも理不尽、とばかりにアイリスが残念そうな顔になる。が、どこか得心がいったように瞳を煌めかせた。
「春ねぇ、ルピナス」
「? 何言ってるの。初夏だよ」
「そうね。ふふっ」
「んー、コホン」
楽しげな双子の語らい(?)に、ようやく居住まいを正すゆとりを取り戻したミュゼルは、少々わざとらしく咳払いをする。
まだ熱が残る頬を無視し、きりっと北公子息殿を見上げた。
「――とにかく。サジェス殿下も策をとられたと聞くわ。わたし、シェーラ殿はそっちに掛かると思う。勘だけど」
そっと告げる声音はある種の予感をはらみ、ほのぼのと緩んだ空気にぴりりと緊張を添えた。




