3 お忍び調査
「じゃ、行こうかミュゼル」
「ええ。お兄様」
快晴の朝、長閑に響く海鳥の鳴き声。地を蹴るロバや馬の蹄の音。たくさんの人夫たちが交わす異国言葉にゼローナ語――港は、昼日中はとにかく賑わしい。
石畳で整備されたエスティア港を埋めるのは、さまざまな容姿の人びとに荷車。それに船。ひっきりなしに行き交う積み荷の数々だった。
入江を削り、石で固めた直線的な埠頭の向こうには幾つもの外洋船が浮かび、手前の広場には露店がひしめく。
それらを横目に坂道を下りつつ、レナードは何気なく口をひらいた。
「――昨日の匂いで、おおよその目星はついた。例の密輸業者。犯人は『アデラ首長連合国』に縁がある人間だと思う」
「アデラ……。砂漠の?」
「ああ」
兄の能力と知識を疑う余地はない。ミュゼルはそれをすんなりと受け止め、自分なりに情報を整理した。
* * *
アデラは砂漠とオアシスの国。エキゾチックな織物や香料などで有名だが、暮らすとなると過酷で厳しい。
緑に乏しい環境もさることながら、砂地の魔獣はゼローナで見られるものと異なり、一つ一つの個体が大きく手強いと聞く。
それもあってかの民は猛々しく、いくもの部族がせめぎ合ってなかなか王権が安定しなかった。いまは比較的落ち着いている。
とはいえ、建国数千年のゼローナから見れば、百年に満たない王朝など赤子のようなもの。これまではどの政権であれ、攻め込まれることはおろか圧力を掛けられることもなかったが――……
「ちょっと怖いけど、呪いやまじないを営む部族があってね。要人の暗殺や呪殺、反対に守護や癒しなんかも行う。ゼローナなら『魔法』と呼ぶものを、彼らは『念』と呼ぶんだ。仕組みはよくわからないけど、どれも独特の香りでね……。ときどきは他国からも請け負う。
アデラの民が動くとしたら、いままでは暗殺とかだったんだけど」
「!? じゃあ今回も」
「いや。それは、わからない」
ふるふる、とレナードは頭を振った。
二人とも旅装で、やや裕福な商人層の出で立ち。荷袋も背負っているが、中身は空だ。
互いに目立たないことを心がけ、山側の一帯によくある被り布に似た帽子で、ストロベリーブロンドの頭部を隠している。ミュゼルは男装に不向きな体型のため、女子装束ではあるがすっきりと髪を編み込んでいた。
周囲の荒くれや熟達の買付人らは二人を全く意に介さず、白熱した競りを繰り広げている。
――東都は、今日も平和だ。
(表面上は)
こっそりと視線を巡らせ、ミュゼルは無意識にアデラ風のターバン頭を探した。
人混みにちらほらと見受けられたが、どれも怪しく感じてしまう。
下手に騒いだり一斉取り締まりなどすれば、たちまち本命に逃げられてしまうだろう。
いまは、とりあえず正規の交易所を確認して、着いた船荷や貸倉庫の名義を――と、頭を振って手順を整理する。
すると、隣のレナードに申し訳なさそうに手を引かれた。
「何?」
「ごめん。その、じつは」
レナードは決まり悪そうに釈明した。
なんでも、五年間も留守にしたため、港内区画の若干の変化に戸惑いがあるらしい。
ミュゼルはなるほどと頷いた。
「――そうね、たしかに。ちょっと大きくなったわ。荷の管理所はこっちよ。前の交易所の裏手にできたの」
「貸し倉庫も増えてる?」
「ええ。ぜんぶ税収源になるから。お父様は喜んでたけど」
「おいおい。管理しきれてないとしたら問題だなぁ」
「お願いしますね、次期公爵様」
「やーめーてー。それに、ここで『公爵』は禁句」
「いまは誰もいないもの。平気よ」
ゆるふわ系とでも言うのだろうか。覇気の欠片もないレナードの声音に、ミュゼルが微笑む。
兄がいない間、港へはよく遊びに来ていた。ここや、領内に立つさまざまな市は庭のようなものだ。
たぶん、自分を覚えている者もそれなりにいるだろうが、こんな形で地味な目鼻立ちの娘がうろうろしていても、まさか領主である公爵家の令嬢とは思いもよらないだろう。
* * *
あとになってミュゼルは、ちょっとばかりこの日を反省をする。
いくら一任されたとはいえ、せめて父に一言知らせておくべきだった。
何よりも事態を甘く見ていたし、兄の能力とみずからの日頃の努力だけで密売者を根絶できると過信していた。
“大ピンチなどあろうはずもない”
“さっさと片付けよう” と。
――――困ったことに、高を括っていたのだ。