36 ジハークの娘
犯人「シェーラ」視点です。
はじめは害意などなかった。
元々、どの国、どの年代、どのような立場であれ、ある程度ゆとりのある女ならば自らをより美しく見せたいとは願うのは当然のこと。
それが、たった一人の夫を囲む第二、第三夫人たちであればなおのこと。
シェーラは腕利きの呪い師であり、暗殺者でもあり、ときの国主の姪でありつつ――だからこそ、影に日向に「顔」を使い分けて氏族に尽くした。
そうするように育てられたからだ。
母方の祖父母に。
また、病床の父に。
――依頼だ、と持ち込まれたのは、オアシス都市ディエルマの長の妻が買い上げたという特別な精油。
肌に塗り込むための上質なオイルが、たぷん、と碧瑠璃の瓶のなかで揺れた。
これに懇ろの術を施し、効果を高めてほしいと。
シェーラは一も二もなく頷いた。
ディエルマ・オアシスの長は、伯父が担う国主の座をことあるごとに狙う不届き者ではあったが、寵妃に恩を売っておいて損はない。
添え付けの文には、最近寝付きが悪いともあった。
精神を鎮める作用が欲しいとも。
(お安い御用だ)
美肌の効果。安眠の効果。
古くから受け継がれる知識を生かし、魔獣の血から採った塗料で独自のまじない文字を象る。“念”を練り込む。
そうしてシェーラの術を施したまじない札は、確認したところ、当初とても喜ばれて正しい効力を発揮していた。しかし――
『なんてことを』
ある日、国主である伯父メルビンの館に呼び出され、苦い声で告げられた。
伯父とは親しい。尊敬もしている。
先日もともに海を渡り、ひそかな護衛役としてゼローナ国王に謁見をした。
凛々しい一番上の王子にも。
第一王子サジェスは、当時十三歳。
父親のオーディン王と瓜二つで、ジハークの泉に伝わる紅華石の精のように波打つあざやかな赤毛。強い紫のまなざしが印象的な生気みなぎる少年だった。
対面早々流暢なアデラ語を話され、驚きつつも嬉しかった。
はきはきとした物言いは年下ながら好ましく、惹かれた。
帰国後にそのことを話すと、父は相好を崩した。
『第一王子ならばゆくゆくは王だ。お前さえ望めば妃にも立てる』と太鼓判を押してくれた。
――……兄を通して彼の国に婚約の打診をしてやろう。
――……何、心配はいらない。相手も無碍には断るまい。
それは嬉しそうに話していたのに。
(そのこと……じゃ、ない?)
がっかりすると同時に、今度は肝が冷えた。
何か、咎められるようなことをしただろうか。
必死に記憶をさらうあいだ、淡々と述べられたのがゼローナ行きの少し前に引き受けた、成功したはずの依頼についてだった。
『いいか、落ち着いて聞け。あっちの長の第五夫人が眠ったままで目を覚まさぬらしい。側付きの侍女も』
『え』
どくん、と心臓が脈打つ。
よからぬ予感に鼓動が早まり、血の気が引いた。
『叔父上』
『勝手にあちらの依頼を受けたそうだな。お前の呪符の仕業に違いないと弾劾を受けた。身柄を引き渡せと』
『……!!』
動揺し、言葉を失ううちに伯父はどんどん話を進めていった。
私を庇うための交換条件としてアデラの国主を退くこと。次の筆頭氏族にディエルマを指名すること。
私の、しでかした失敗は不問にされると。
だが、それでは。
――――――――
元々前向きな気性の伯父とは正反対に、病に臥す父は失意のうちにどんどん衰弱した。
ジハークの誇りを踏みにじられたとさんざん貶され、側で暮らすのもつらく、やがてシェーラは家を出た。祖父母らが統括するジハークのもう一つの稼業の組織――つまり、“裏の顔”を生活の中心に据えるようになった。
皮肉なことに表の公務とは異なり、要人暗殺や弱体化等の仕事はするすると板についた。やがて、どんな難解な依頼でもこなせるようになった。そんなある日。
『え? 婚約…………。ゼローナの第一王子が?』
ずっと、記憶の隅にきらきらと残る華やかさの破片。
在りし日の少女だった頃の自分が、ふいに顔を出して疼痛を訴えた。
なぜ。
なぜ。
ぐるぐると巡る思索に溺れるまま、そのときの仲間に矢継ぎ早に仔細を尋ねた。
相手は。
いつから。
婚儀は。
たしか、ゼローナのサジェス王子は文武両道、優秀な人物ながら十八にもなって婚約者を定めない数少ない王族と噂にのぼることもあった。
その波及力は、向こうの大陸から海を隔てた砂漠まで鳴りわたるほど。
かの王家と婚姻関係を結びたくない国などは無い。
それほど引く手あまたなのだ。
(うちだって)
ちくり、と針で刺すようだった痛みは徐々に深まり、手足の血が逆流するほど。
何かが音をたてて切れた。煮えくり返った。
『おい、大丈夫かシェーラ。顔色が』
『悪い。この仕事を終えたら、私はいったん抜ける。岩山のじい様たちには、そう伝えて』
『はあぁ?』
突然の翻意に仲間の顔が歪む。
べつに、永久の足抜けではない。ちょっと休暇がほしいだけだと嘯き、さっさとそのときの仕事は片付けた。
とある豪商同士の小競り合い。野盗を装って片方のキャラバンを壊滅させる。それだけだった。
――とりあえず。
身一つでも呪術のもととなる材料だけは荷袋に詰め、普通に渡航すればいい。素質のある人間が念を込めなければ単なる塗料。魔法検問とやらも素通りできる。入国理由は仕事を探すためとでも、何とでも。
シェーラは、あのとき“失敗作”とされた呪い文字を鮮明に覚えていた。
驚いたことに、第一王子の婚約者となった北公令嬢は虚弱体質で、約一年後の婚儀までは妃教育を兼ねた療養のため、温暖な王都へ移り住むという。
そういうことなら。
(……結婚前ならば、周囲からさぞ手塩をかけて磨かれることだろう。あのときの依頼主のように、呪いの効力で寝つかせれば良い。あるいは)
――――よくよく調べれば、呪い文字はアデラ文字の原型とわかる。
あわよくば、現在国主をつとめるディエルマを潰せる。
名案だと思った。
いつの間にか死んでしまっていた父が、生前いつも罵っていた。あの簒奪者どもに一矢報いられるのだ。
『見てなさい。どいつもこいつもむしゃくしゃする。ぶち壊してやるわ』
* * *
時は流れ、多少の妨害はあったものの、王太子の成婚の儀までは二ヶ月を切ったいま。
シェーラは大半の塗料を使い切り、各地に隠してあった美容薬と化粧品を、それこそガーランド産にとどめず捌ききった。在庫は無い。
くすくすと、身をひそめる王都のうらぶれた宿の一室で先に祝杯をあげる。もちろん一人だ。
タイミングは測ってある。
王都を中心に、ちょうど各国の来賓が集まり始める頃合いで深刻な事態となるだろう。
シェーラは昏い愉悦に酔いしれた。
次話、主人公たちのターンになります。
ここからラストの章を想定しています。よろしくお願いします!




