30 恋よりも(後)
ソラシアに目的の本を見繕ってもらいながら、ミュゼルはルピナスとともに小部屋のような閲覧室へと案内された。
おそらく、二人で会話をすることもあろうかと気を利かされたのだろう。一般の閲覧席からはやや離れており、アーチ型の出入り口が一つだけ。開け放しで扉がない。
三方を書架に囲まれ、棚の上には横一列に小窓が並ぶ。全体の雰囲気は半二階の読書サロンと言うべきか。図書館というよりは、居心地のよい隠れ家のようだった。
「こちらへどうぞ」
二人を先導するソラシアが先に入り口をくぐり、四人掛けのゆったりとしたソファーと二つのスツールが囲む、一つだけのテーブル席へと案内する。
(これは…………、隣に座ることになるのかしら。密室とはいえないけど、大丈夫かな。近い?)
ちょっとだけ躊躇したミュゼルは、ちらりとルピナスを流し見た。
さして動揺するでもなく「ん?」と見つめ返され、仕方なくソファーの奥へと詰めて掛ける。ルピナスは入り口から見て手前に座った。ごくごく自然な流れだった。
案内したソラシアは持参した本を並べ、にっこりと天使の笑みを浮かべる。
「これらがご所望のアデラ関連の書物です。辞書はこちらに。よろしいですか?」
「え、ええ。ありがとう」
「はい。ソラシア殿」
「ごゆっくり。定期的に職員が通りますので、べつの本がご入用の際は、遠慮なくお声がけくださいませ」
宮廷作法ではないのに、ソラシアのようなたおやかな美女が微笑んで会釈すると、それだけでさまになる。
複雑な思いで隣を伺ったが、雑念一つない様子に溜め息をつく。
思い切ったように、ミュゼルは、まずは一冊の本を手に取った。
「じゃ、始めましょうかルピナス君。にわか先生だけど、容赦ないわよ」
「望むとこ……じゃない。はい、すみません。よろしくお願いします」
たぶん、妙齢の未婚の男女が相対するには不似合い(?)なほど、へんな色気は一切ない一対一の講義が始まった。
* * *
首長連邦国アデラとは、その名の示すとおりアデラ砂漠に点在する、七つの有力オアシス部族から成り立っている。
各首長は二年に一度会合を行い、その都度自分たちの代表を決める。現在の国主は城郭都市ディエルマの長で、任期は長い。そろそろ八年になる。
エスティアからは最新の魔法帆船で海路二日。陸路は高速砂トカゲで三日。
華奢な貴族女性にはハードな日程だが、ミュゼルは体が丈夫なほうなので耐えられるだろう。
北公領騎士団で、わりと無茶な野営もこなしたことのあるルピナスは言わずもがなだった。
隣り合ってそれぞれの膝に地図と隊商台帳(※持参)を広げ、ミュゼルはできるだけ丁寧に、無心に説明する。
「そんな感じで先触れは出してあるわ。あとは、うちの商会の支部長に任せて平気。
……でも、どうする? 国書があれば大使扱いになるから、すぐに国主と面談できるけど」
「そこだな。私も“ゼローナの国意として”行くのは考えた。でも、王城からは『国書は出せない』と。王太子殿下のご成婚まで、なんだかんだ言ってあと三ヶ月だ。各国にも招待状は出してる。――もちろんアデラも。
そんなときに、不確かな推論で喧嘩じみた問答は仕掛けられないと」
「ううん……もどかしいわね。アデラ古語のラベルも、外部による偽装の可能性は捨てられないってこと? あの女の人は察するに、オアシス・ジハークで決定でしょ」
「! ん、あ、うん」
「?? …………あっ。ごめんなさい」
「い、いや。大丈夫。こっちこそごめん、近かった」
焦れったさのあまり、ミュゼルは左側のルピナスの顔を下から覗き込むように迫っていたことに、今更ながら気がついた。
はっ、として慌てて身を引く。
耳に残る、至近距離で響いた彼の声が思いのほか心地よく、危ないなぁとどぎまぎしていた。
身じろぎの気配。
す、とルピナスが起立する。
「ルピナス?」
「ちょっと外す。あっちではどんな魔獣が出るかも調べたいから。奨励装備とか」
「あぁ、そうね。行ってらっしゃい」
揺れる藍色の髪を見送り、通路に出てすぐ、近くを通りがかった司書に話しかける声がした。
遠ざかる足音に、どっと緊張が解けて顔を覆う。突っ伏した。
(〜〜!?!? し、信じられない……。嘘、うそうそ。これじゃあまるで恋にめざめた女の子じゃない。やだ、ま さ か このタイミングで!???)
もともと、同年代の異性としては一番心を許していた。不可抗力とはいえファーストキスまで奪われており、手も繋いだ気がする。
あまつさえ、そういえば彼の名を得意げに口にしたドロッセルや、健気なソラシアにまでおだやかではない気持ちを抱いたような。
………………気がする。
「うそ……?」
ぽつり、と呟いてしばらく、頭が真っ白になった。
縁遠いと感じていた恋の相手が、よりによって、なぜルピナスなのか。
必死に落ち着こうと肩を震わせ、赤くなったり青くなったりする公爵令嬢は、どこから見ても年頃の恋する乙女だった。
* * *
(あぶない。……くっそ、危なかった)
黙々と書架に挟まれた細い通路を渡り、目当ての一角まで辿り着いたルピナスは、真顔で顎に手を添えた。ずらりと並ぶ手強そうな背表紙と睨み合い、ピクリとも動かない。――ひそめた眉のまま。
ジェイド公爵家の遺伝か、とくに、母や自分は心底動揺すると表情がなくなる。
動揺。つまり。
――――――彼女とは。
庇護の対象とは違う、牽制の対象でもない。肩を並べて対等に意見を交わせる信頼や気安さ、高揚がある。
『これまで』は友情だった。それは間違いないのに。
「なんでだ。なんで、今なんだ……?」
奇しくも相手も同じように心で叫び、一人悶々としていることなど知りようもない。
はからずも抱き寄せた柔らかさや花のような香り。むりやり塞いだ唇も。時折り見せる挑発的な琥珀色のまなざしも。
記憶や感触は薄れるどころか、間近にすればふいに蘇るだけ。理屈ではなかった。
下手に築き上げてしまった友情の期間があるため、相手も無防備極まりない。おそろしく、たちが悪い。
(はあぁ…………やばい。集中。集中しないと、しぬ)
傍目には真面目そのものの北公子息殿が、意を決したように本の背に指を滑らせる。
じつに適当に新しそうな一冊で止まり、取り出した。




