29 恋よりも(前)
「納得いきません」
「そうか? 儂は納得しているが」
「父上は、呑気が過ぎるのです……!!」
港に向かって羽を広げるように建つ、丘の上の東公邸。中央の奥にあたる南翼二階には、広々とした公爵執務室がある。朝から部屋に詰めているのは公爵ミュラーと嫡子レナード。
レナードは助手よろしく各種書類をさばきながら、黒っぽく大きな執務机で仕事中の父に、胡乱な視線を流した。
* * *
あの晩餐の翌日。
ぶじ、サンプルや報告書などを持たせた小型竜がエスティアを発ってからは三日経つ。
王城からの返信が届いた今朝は、公邸内はまたしても非常な慌ただしさに包まれた。
今回に限って言えば騎士団宛に王太子直筆の指令書も含まれており、売人探索のための各領への部隊展開などがとても細やかに記されてあった。なかなかの無茶振りに、現場は妙な士気で盛り上がっていたが。
レナードが鬱々と父の書類仕事を手伝いつつぼやくには理由があった。――なぜならば。
「なぜですか。なぜ、ミュゼルがわざわざあいつに従って使節員にならねばならんのです。アデラへの」
「口を慎みなさい、レナード」
とんとん、と紙束を揃え、ミュラーは嘆息とともに次の書類をとった。ペンの走る音がカリカリと響く。
「ルピナス殿は、この件に関して王太子殿下より全てを一任されている。彼が必要と判断したなら『そう』なんだろう。使節代表員はあの子たちだ」
「しかしッ! 向こうの大陸なら、僕のほうが」
「――レナード。ミュゼルでは、居残っても、残念だが騎士団との繋ぎとして弱い。ならば、とびきり優秀な美男子護衛殿がいらっしゃるうちに、いちど海を越えてみたほうが良いだろう。我が家のためにも。ひょっとしたら、両家のためにも」
「!? 父上」
「たとえば、の話だよ。今のところ、お前にもあの子にも政略婚の必要はないわけだし。奇跡的にね」
「ぅぐっ」
手が止まりがちなレナードとは対照的に、ミュラーは一定のスピードで仕事を片付けてゆく。
そのことを責めるように、じとりと睨まれたレナードは、渋々手元の書類へと目を落とした。
――――「わかってますよ、そんなことは」という呟きは、ものの見事に黙殺された。
* * *
「まあ、ようこそお越しくださいました。ミュゼル様、ルピナス様」
「! ごきげんよう、ソラシア様。お家はもうよろしいの? その……母君は」
そのころ。
渡航の下調べのために大図書館を訪れた二人は、見知った顔を見つけて驚いた。
渦中のソラシア・ガーランド嬢は、まだ休暇のはずだ。せっかくの休日をもう繰り上げたのかと、それはそれで心配になる。
若干語尾を落としたミュゼルに、ソラシアはにこりと笑んだ。
「大丈夫ですわ。信頼できる親戚筋に、家令のような役割を頼んで参りました。ちょっとお給金も発生しますけれど、何かあれば早馬で知らせてくれる手筈です。ご心配なく」
「そう。それは良かった」
「さすがですね、ソラシア殿」
「はい……、あ、いいえ。そんなことは」
ソラシアは口ごもるように目を逸らすと、思わず頬を染めた。
ルピナスの神秘的な黒い瞳が自分に向けられたとき、和らいだように感じてしまったのだ。
とはいえ、すでに真実を明かされた身としては、ルピナスはたとえ騎士団の制服をまとっても、持ち前の美麗さとあいまり、後光のさす、王家に次ぐ家柄の若君にしか見えない。
(我ながら、だいそれた夢を見てしまったわ……)
ついつい黄昏れてしまうのは、初めて彼が図書館で名乗ったとき。
王城の騎士で、単身派遣されるということは、王都近郊の下級貴族の次男や三男くらいかと早合点した。
このあたりでは滅多にお目にかかれない洗練された仕草、凛々しさ、職務一直線らしい人柄にも惹かれたが、無意識に『婿に来てくれたら』と、相手を家と紐づけて考えたときは内心辟易とした。
ずっと、貴族らしくはないと思っていた自分のなかに、どっぷりと『らしさ』を見出して。
……結果論だが、あの夜は、二人の親密さを知れて良かった。
まさか、勇気を出して自領の相談にかこつけてミュゼルを誘い、一緒にルピナスの部屋を訪ねてもらおうとしたなんて。
そうまでして彼との接点を持ちたかったなど、すこぶる黒歴史にほかならない。いまも残る仄かな気持ちごと、早々に葬り去らねば。
――――そのためにも、さっさとガーランド邸をあとにした事実なんかは上手に隠せたはず。
そっと、蜂蜜色の瞳の少女を見つめる。
幼いころと変わらず優しく、愛らしい。賢いミュゼル。
(彼女と彼が、このまま結ばれてくれればいいのに)
もの問いたげな彼女には、ことさら柔らかな笑顔を心がけた。
同じ補助司書を奥の作業室から呼び、受付業務を交替してもらう。キィ、とカウンタードアを開けた。
「さ。本日の調べものは何でしょう? ご案内いたしますわ」




