2 眠れる美女の魔法薬
事件は最初、ここから遠く離れた王都の地で起きた。
王城づとめの女官がたが、ばたばたと欠勤届けを出し始めたのだ。
城の人事管理部ははじめ、彼女たちが裏で結託して労働拒否をしているのか、或いは流行病かと危惧したが、そうではなかった。
彼女たちは、職場内で「急に綺麗になったね」と噂されるほど健康体だった。
ところが、残念なことに勤務時間はぼうっとすることが多く、恋でもしているのかと。
しかし、上司である女官長は、たった一つの共通点に気がついた。見舞いのため、全員の部屋を順に訪れたときのことだった。
彼女らの部屋の鏡台や枕元の小卓には、決まって同じ異国ことばが記された瓶や、同じデザインの白粉小箱があった。
――偶然にしては出来すぎている……?
直観した女官長が人事部に掛け合い、やがて国王に上奏された。事態が『薬害』と認定されるまで、そう時間はかからなかった。
倒れた女官たちが言うには、それら一つ一つは非常に高価で効き目がよく、いわゆる口コミで広まったもの。
販売元はすぐに知れ、業者は一網打尽にできたと思われていたのだが――
“眠れる美女の魔法薬”
押収された商品のラベルには、海を挟んだ外つ国の古い文字で、そう記されていた。
希釈タイプの美容薬も、輝くように上質な白粉も。
明らかに輸入品。しかも、密輸品だった。
あげく、検挙してもきりがないほど副作用を起こす者があらわれ、消費者と被害者の連鎖が絶えない悪循環。堂々巡りのイタチごっこで、真の販売元が見えない状態。
――命を落とした者がいなくとも、このままではいけない。
そう判断した王が、国で唯一の貿易港を預かるエスト公爵に調査を命じたのが一ヶ月前。
エスト公爵は、まさにその外つ国が数多ひしめく大陸で外遊中だった長子のレナードを呼び戻し、ことに当たらせた。
去年デビュタントを終え、東都の社交は一通りこなしていた末娘のミュゼルも、みずから協力志願した。
そういう経緯があった。
* * *
「とにかく、寝てしまうのよね?」
「らしいね。最新の書簡では。結局、女官たちは数日で起きられるようになったけど、いまも一日の大半は眠って過ごすって」
レナードは呟いたきり、顔をしかめてさりげなく鼻を押さえた。
ダンスのときにいくらか不審な『匂い』を嗅いだということは、ホールの端にまで漂うものがあるのだろう。ミュゼルは心配そうに兄を見上げる。
「酔った? 大変ね。稀少な“能力”とはいえ、魔法の気配を嗅覚でとらえちゃうのって……きつい?」
「ん。ちょっとね。向こうの大陸の一部族に伝わる“呪い”に似てる。どんな美人でも、こうも強烈な香りじゃ側にいられないよ」
げんなりと吐息する兄を、妹がけらけらと笑い飛ばす。――もちろん扇の影で。
「ふふっ、ご愁傷さま。でも収穫はあったわ。お父様がお兄様を呼び戻してくれたおかげで、芳しくはないけれど、そんな良くないものがエスティアにも浸透してるってわかったし」
「うん。あとは陛下の仰る通り、黒幕がいるなら根城を特定して……あああ、骨が折れる」
「がんばって。わたしも手伝うから」
よいしょ、と立ち上がる兄のふわふわの髪に、次いでソファから立ったミュゼルは爪先立ちになり、よしよしと手を伸ばす。――五年間会わずとも、頻繁に文のやり取りはしていた。その睦まじさが周囲の人々に波及し、ほっこりと微笑みを誘う。
レナードは「ぽっと出だから」と自身を評したが、居並ぶ令嬢がたにとっては最大の関心事だった。
ただ、あまりに「大物」で、しつこく声をかけて嫌われては元も子もないから。
また、東都の若き社交の華と噂される妹ぎみへの気遣いもある。
つまり、ほぼほぼ良心の賜物だった。
それを証明するかのように、連れ立って帰路につく公爵家の兄妹を無遠慮に呼び止める者はいない。
お先に、と優雅な会釈で退出する二人は、おおむね羨望のまなざしで見送られた。
* * *
馬車のなかは二人で使うには広く、話すことも多かったため、隣りあって座っている。
相談の合間も欠伸が絶えないミュゼルに、レナードは苦笑した。
「大丈夫? ゆうべは遅くまで何かの帳簿を見てたろう」
「交易帳簿の写しね。それは否定しないわ。でも、わたしはお兄様と違って、取り立てて有益な魔法が使えるわけでもないし。調べ物をひとに任せるのは嫌なの。性に合わないから」
「相変わらずだねぇ」
「そうよ。人間、そうそう変わりっこないわ。わたし、このまま独身貴婦人をめざすの。伴侶とか婚約とか、正直考えられない――」
くすくすとひとしきり笑うと、おもむろに真面目に顔を見合わせる。
両者ぴったりのタイミングだった。
「いまは四の月。八の月の終わりには王太子殿下のご成婚の儀がある。何としてもそれまでに解決を。そういうお達しだったね」
「ええ」
こくり、とミュゼルは首肯した。
来る夏の終わり。
かねてより婚約状態だった王太子と北公息女が、王都の大神殿で盛大な式を執り行う。
今回の事件は外つ国絡みとあり、治安維持や警備面において気を許せなかった。
ほんの少しの憂いごとも、大禍の兆しありと見れば全力で払わねばならない。
ゼローナの臣として、民として、ミュゼルはあらためて気を引き締めた。
が。
(うぅ……っ)
連日の夜ふかしはつらい。眠くて眠くてしょうがない。
ゆっくりと進む馬車の振動に抗えず、背もたれに体重を預けた妹の髪を、今度はレナードがやさしく撫でた。労うように覗き込む。
「まぁまぁ。ちょっとでもお休み。きみは、あやしい薬なんか必要なさそうだけど、すこやかな眠りは別だよね」
「……うるさいなぁ。どうせ、取り繕いようもないへちゃむくれよ。わたしは」
「おや」
ぼそぼそと言い返されて眉を上げるも、レナードは否定も肯定もしなかった。束の間、車内には穏やかな沈黙が満ちる。
――――眠るといっそうあどけない。
公爵令嬢のしずかな寝息とともに。