19 光さす、図書の君
選択肢は二つある。
兄から呼ばれてその場を離れるにあたり、ドロッセルに暇を告げたミュゼルは淡々と考えた。
一、すぐに図書館へ向かう。
二、おとなしく観劇を終え、帰邸後のルピナスを捕まえる。
――……おとなしく?
理由はわからないが、常々女性の笑顔とは怖いものだと思うことがあった。いま、その「怖い」に分類されるだろう笑みが自分に浮かんでいるのは疑いようもない。
おとなしくなど、する必要はない。
機は待つな、捕まえろ。(※エスト家家訓)
意を決したミュゼルはデイドレスの裾を優雅にさばき、こちら側に歩んでくる兄に自らも近寄る。にこりと微笑みかけた。
「お兄様。お友だちとはもう宜しくて?」
「? うん。さっきの令嬢は」
「ドロッセル様ね。ここの劇場で脚本も手がけていらっしゃるベルナール卿の奥方よ。それで、ちょっと耳よりな情報を仕入れてしまって。真偽を確かめたいのだけど」
「うん…………?」
胡乱なまなざしを向けられてしまったが、構うことはない。
今日は、自分はがんばった。
きっと、兄もいろんな人と引き合わされて記憶容量がいっぱいに違いない。しずかな圧と確信を込めて、ミュゼルは両手でレナードの手をとった。ひた、と見上げる。
「ベルナール夫人は画家のパトロンをなさっていて、向かいの図書館でサロンをひらくこともあるんですって。わたくし、併設のカフェに興味があるわ。お兄様もいかが?」
「劇は」
「い、か、が?」
「………………まぁ。いいけど」
こうして、エスト家の兄妹は残りの恋愛劇を観ずに劇場を発った。
* * *
丁寧に敷き詰められた石畳に陸橋。幅広く整えられた運河。馬車はゆるやかに通り過ぎ、新緑の街路樹がさやさやと風に揺れている。
高級区画は港とはまた違った賑わいで、出歩く人びとは上流と思わしき身形の者ばかり。
通りを渡り、反対側の歩道に出れば、すぐに神殿のような円柱で飾られた蔦這う建物の前に出た。創立は公国時代とも謳われるエスティア都立大図書館だ。
ここは、べつに貴族のみが出入りするわけではない。
むしろ高価な本を買い揃えるのが難しい中流家庭であったり、購入にはこだわらない者、あるいは各種研究職からドロッセルのように娯楽小説目当てで通う貴婦人などがちらほらと見える。
(ソラシア様か……)
ミュゼルは、懐かしく彼女を思い出した。
ソラシア・ガーランド嬢。
母親は男爵位を引き継ぐ領地持ちの男爵夫人で、この場合の「夫人」は配偶者ではない。彼女本人が男爵だ。
父親は優秀な船商人だったが、残念ながら数年前に海難事故で他界した。
それで、娘の彼女がか細い領地収入しかない家計を助けるため、家庭教師や補助司書をするようになったと聞く。
彼女はミュゼルの審美眼をもってしても、じゅうぶん鑑賞に値する美少女だった。
この辺りでは珍しい黒髪。春の空のような水色の瞳。
華奢ですらりとした手足に、柔らかな笑みの似合うおだやかな顔。
彼女の父親がまだ存命だった頃。
ちらりとどこかの茶会で見かけてからは、それきりだったが――
「あ」
思わず声を上げた。
外階段をのぼり、重厚な扉をひらくとなかに魔法灯をともした燭台に彩られた細長いカウンターがある。
つややかな木の風合いは飴細工のような照りがあり、この建物の歴史を感じさせた。若い司書が男女合わせて三名、立ち働いている。そこに。
はたり、と気づいたらしい彼女が手を止めた。
記憶通りの儚く可憐な笑顔となる。
「まああ……ひょっとして、ミュゼル様ですか? お久しぶりです」
「お久しぶりね。ソラシア様」
ばたばたと奥から正司書らしき老人も現れ、後ろにレナードも控えることからひどく狼狽させてしまったが、観劇のついでに立ち寄っただけなのでお構いなく、と伝える。
周囲の視線もあって、まるで自然体というわけにもいかないようだったが、自分たちの応対は面識のあるソラシアが受け持つこととなった。
さりげなく書架の案内を乞うと、快く引き受けられる。レナードから「カフェは?」と聞かれたが「あとでね」と小声で躱す。
何となく勇み足で乗り込んだものの、本題を切り出せずにいたミュゼルに、機会は早々に巡った。
静謐。
ほこりが白く舞い、窓辺の光に可視できる書架の切れ間。ひっそりと隠れるような閲覧席があった。六名は囲めそうな大卓に、たった一人で陣取る少年がいる。
横顔は繊細な美貌。かなり、青年の域に近づいてはいるが。
ソラシアはそれらの光景を、そっと、包み込むような声音で告げた。
「――……ルピナス様、と仰るのですね。伺いましたわ。数日前から騎士のお仕事で公邸にいらっしゃると。
本当に熱心なかたですよね。朝からたくさんの書物を求められて…………失礼、ルピナス様? エスト家のレナード様とミュゼル様がお見えです」
「え?」
ぱっ、と顔を上げた彼はまったく無防備な表情で、そっくり同じ色彩の兄妹を見上げた。




