1 事件の始まり ☆
「紹介してくださいな、ミュゼル様! あのかた、どなたですの?」
「ああ、あのひと」
きらびやかな男女が代わる代わるホールに出て優雅な礼を交わし、ステップを踏んでいる。
今宵、社交界デビューを終えた令嬢の一人として会場に参じたミュゼルは、口元を扇で隠しながらのんびりと答えた。――正確には、あくびを噛み殺している。
「我が兄、レナードですわ。ここ五年ほど外つ国で遊学していたのです。先日戻りまして」
「まあぁ。遊学……やはり、商団の実務かしら? すばらしいですわ。あとで、少しでもお話できるかしら」
「ご随意に」
にこ、と笑い、パチン、と扇を閉じる。
それを、ホール中央で他家の令嬢を伴い、楽しそうに踊る兄に向けてから小首を傾げた。
「あの通りの見た目で、人当たりも良いので。さっきから踊りっぱなしですの。よろしければ、貴女から少し休んでは、と、お声がけしていただきたいわ。マルティナ嬢」
「まあ! 喜んで」
ミュゼルは、浮き浮きと頬をほころばせる年上の令嬢に流し目を送ると「ではごきげんよう」と一言。ホールの端のカウチソファーへと歩み寄った。給仕の青年を呼び止め、ワインと紅茶、甘いショコラを所望する。
その後、公爵令嬢であるミュゼルのもとには数名の貴公子がダンスの誘いに訪れたが、どれも応じることはなかった。
容姿、十人並み。
強いていえば色白ぽっちゃり。(※肌の手入れはぬかりない)
兄妹そろってストロベリーブロンドに蜂蜜色の瞳なのだから、並べばそれなりに見栄えはする。が、それだけだ。
はっきりとした眉にやや垂れ目の端正な顔立ち。微笑みをたやさない高身長のレナードとは異なり、ミュゼルは小柄でもちもち。顔立ちはまぁまぁ。害のなさそうなのだけが取り柄と自負している。あとは。
(まったく。どの殿方も一緒よね)
淡いピンクラベンダーのサッシュリボンが印象的なドレスは、昨今の流行りもあって楚々と胸元を際立たせる。
というか、ミュゼルの場合は寄せて上げなくとも際立ってしまう。
包み隠しても野暮ったいし、さりとて出せば出したで男性の視線はある一定方向でストップする。
正直、うんざりである。
みんな、家柄と胸が目当てなんだと断言してもいい。
せめて、安売りしなくてもいい家に生まれて良かった、と、かみしめながら七個目のショコラを口にしたところだった。
おやおや、と目を細めたレナードが一人で近づいてくる。群がる令嬢がたを、よくぞまいて来れたものだ。
彼の後ろに視線を投げると、くつりと上から苦笑が落ちた。
「これだけの賑わいだ。みんな、それぞれ違うパートナーを見つけてるよ。ぽっと出の僕一人に固執する必要はどこにもない」
「さすがね。おつかれさま」
「労いをどうも? 妹ぎみ。……ふうぅ、やれやれ」
失礼、と断って隣に来たレナードは、台詞のわりには、ぶっ通しで踊った疲れをいっさい感じさせないほどの身軽さだった。
ミュゼルは、とっておいたスパークリングワインのグラスを、はい、と手渡す。
それを受け取り、きれいな仕草で傾ける兄を黙って見ていた。
ふいに、目があった。
「――で? めぼしい情報は得られて? 国王陛下肝入の、内々の調査命令なのよ。こんなの、お兄様の『顔』だけが頼りだわ」
「おいおい〜、僕はね。いちおう公爵家嫡男であって」
「いいから。商売にも情報収集にも、相手が好む『顔』って大事なのよ? その点、お兄様は恵まれてるわ」
「そりゃどうも」
口の端を下げても優男な兄は、ひとしきり唸った。
口元に手を添え、いまもくるくると回る、令嬢やご婦人がたの衣装が翻る華やかなホールに目を遣る。
「結論、けっこう出回ってるね。美容と健康のためって謳い文句は、貴族にとっては抗いがたい。とくに東都は外つ国への玄関口だ。あっさりと手に入っちゃうから、安易に服用するんだろうな。踊ってても、すれ違いざまに匂うご婦人はかなり居たよ」
「えっ。じゃあ」
ミュゼルは八個めのショコラに伸びそうだった指を思わず止めた。ぱちくりと目を瞬く。
レナードは、ほんの少しだけ声を抑えた。
「うん。国王陛下のご慧眼はさすがだね。あっちの国で学んだからわかる。良くない魔法が絡んでる。水際で、ちゃんと取り締まらないとだめだ」