17 北の導べ星、王都より東へ
平筆を左右に滑らせたように茜色の雲が段々になっている。華やかな橙から紫、一番星を抱く紺へとうつろう空を背景に、窓辺に立ったミュゼルは今か今かと一つの知らせを待っていた。
「遅いわ。兄様たち、まだ戻らないの?」
「はい、お嬢様。残念ながら」
「そう……」
ふう、と吐息してつかつかと長椅子に近寄り、座ろうか悩んでは、また窓辺に行く。さっきからずっとこの繰り返しだ。
自室のバルコニーからは、点々と灯りのともり始めた港と、そのまた向こうの水平線が見えた。数時間前までは自分もそこにいたのに、と。
ミュゼルはすっかり湯浴みを終え、ふだんの令嬢らしいドレス姿になった自分を見下ろした。やるせなく数度目の溜め息をつく。
「不甲斐ないわ。わたし、今日は全然役に立てなかった。いっそ、男に生まれていればよかったのかしら。探索にも関われないなんて」
「!?」
「そのような……。お嬢様は充分お体を張られたかと存じます。ふつう、貴族の姫君は三日前のようなお忍びも、今日のような危険なこともなさいません。どうぞ、若様のお達し通り淑女らしくお過ごしくださいませ」
「ええ〜」
部屋付きの若いメイドは紅茶の支度の途中でみごとに固まり、落ち着きのない自分を気遣ってか、兄の乳母もつとめたメイド長ははきはきと正論を口にした。
たしかにこの場合、下手に気落ちに寄り添われるよりはずっと、遥かに前向きになれるのだが。
渋々給仕を受ける気になったミュゼルは、文句を付けられないようにわざとお淑やかに振る舞い、しずしずと長椅子に腰を下ろして小首を傾げた。ふわり、とメイド長を見つめる。
「やろうと思えばできるのよ?」
「存じ上げております」
「じゃあ」
「で・す・か・ら! お願い申し上げております。これ以上私どもの胃を苛めないで下さいませ。穴があきそうですわ」
「それは…………どうも。ごめんなさい」
わかれば宜しいのです、と、ぷんぷんしているメイド長は、エスト家の親戚筋に連なる男爵令嬢で、本人のたっての希望で東都の指折り豪商に長年勤めた。
やがて、その会長の妻に納まってからはレナードの乳母となったことをきっかけに、公爵家でメイドをしている。
いまは留守にしている母とも気心が知れた仲であるため、兄や自分のみならず、父にまで思ったことを進言できる数少ない使用人の一人だ。――……というか、それって使用人の範疇を軽く越えている。(※口うるさいが善意のひとでもあるため、ふしぎと嫌味ではない)
ミュゼルはしおらしく謝り、メイドが淹れてくれた紅茶を口に運ぶ。
器の温もりに何だかんだで癒やされつつ、味はよくわからない。しみじみと今日の昼間を振り返った。
――――――――
あれから。
ルピナスが笛で騎士たちを呼び、まるで飛んできたかのように駆けつけた兄をまじえての各々の報告会。
ミュゼルが同席できたのはそこまでだった。「邸に帰っていなさい」と言われれば従わないわけにゆかず。
ルピナスも「一応、怪我がないかよく診てもらって。さっき、護符が……――」と、ミュゼルの手をとり、思案げに眉をひそめていた。守護の指輪が消えていたからだ。
そのさまに、なぜか隣のレナードがわなわなと震えだす始末。
のっぴきならない修羅場じみた気配は、ちょうど父のミュラーが現れたことで失せたのだけれど。
(心配だわ……理不尽に責められたりしてないかしら。あの女を逃したのって、私のせいなのに)
――心痛だけで胃が細れるなら、自分だってすぐに痩せてしまうに違いない。
紅茶を口にしつつ憂えるミュゼルは外見上、いかにもおっとりとした深窓の姫君らしく、意図せずメイド長たちに少しばかりの安堵を与えていた。
* * *
東公領騎士団およびエスティアのギルド私兵団、それらが管理し、猫の子一匹見逃さぬ気合で見張っていた貸倉庫郡の一帯からは、女はおろかさほどの痕跡も見出だせなかった。
物証としては数枚の割れた瓦と密輸品の木箱が二つ。吹き矢の針が一本くらい。
とはいえ、これを機に交易ギルドでの密輸品売買は即刻禁止。公爵家側とギルド側で協力し、しらみつぶしに港内の見廻りを強化する件も取り決められた。
ルピナスは自ら頭を下げ、売人に逃げられたことを開口一番に謝罪したが、エスト公ミュラーは「とんでもない」と目を丸くした。
逆に、娘を守りながらよくぞ相手の情報を得てくれたと感謝し、あたたかく労った。
ほか、諸々をギルドの会議室で話し終えた三名は公爵家の馬車に同乗し、帰路に就いた。日はとっぷりと沈み、月夜だった。煌々とした月光を車窓から浴びつつ、会議はやや延長している。
「――それで? 貴殿はどうします」
「どう、とは」
「あなたは、元はサジェス殿下の懐刀でしょう。婚儀を控えた姉君のこともおありだ。殿下の方針を仰ぐためにも、一度、戻られたほうがよろしいのでは」
「それは……まぁ」
そうですね、と柔らかに受けとめる声音は、訊いた側が思わず怯んでしまうほどの真摯さだった。
意訳すれば“王都に帰れ”と促した自覚のあるレナードは、反対に至極まじめな夜色のまなざしに晒され、背中がむずむずする。
ルピナスは、ふむ、と思慮の姿勢になった。
「ここから王都までは、早駆けで五日と聞きました。ですが、いまは時間が惜しい。知らせなら小型竜で事足りますから」
「え。あ、うん」
「………………」
ミュラーは将来有望な北公子息殿と、よく言えば抜け目のない息子をしげしげと眺めている。
二人の醸すちょっとズレた空気を面白がりつつ、口出しもせず見守る体勢だった。
カラカラカラ……と、控えめな速度で馬車が進む。
その音に邪魔されない声量とはっきりした意志を乗せて、藍色の髪の公子は言い切った。
「じつは、王太子殿下より言質はいただいています。『判断はお前に委ねる。好きに動いていい』と。
私は、私の判断でここを拠点にもう少し調べたいことがあります。他領へも。よろしいでしょうか」
「えぇ……っ!!?」
「もちろんだよ」
がくん、と馬車が揺れる。
坂をのぼる。
小高い丘の上に建つ公爵邸までは、あと少し。
ルピナスの申し出は当主により、快く受諾された。