15 二度目の取り引き
『もの忘れの香』への対処は、今回は万全だった。
前回は気付け薬としても使われたトール王子の中和薬はたいそう優れもので、ふつうに水で服用すれば、その後三十分から三時間は香の効果を防げるという。
(たぶん、どの程度忘れさせるかはあの女の気分一つ。別れ際の『言葉』で決まるんだわ。前、わたしは取り引きのことしか覚えていなかった。助けに来てくれたルピナスのことも、自分のことすら忘れて……暗示よね。こわいな)
そのときの危うさを思い出し、今更ながらぞっとする。
薬のことといい、彼を“転移”させてくれたことといい、王都のトール王子にはお世話になりっぱなしだ。事件が解決したら、ぶじにお礼を伝えられるだろうか――など、つらつらと考えるうちに女は建物の隙間をどんどん進んでゆく。
目の前はどん詰まり。石壁に区切られた袋小路に見えたが。
「え? これは」
「お待たせ。約束の品はここよ。あっちに幌を被せた木箱がある。二人で確認してきて。あたしは、ここで待ってるから」
「わかった。行こう」
「う、うん」
背中にそっと手を当てられ、ミュゼルは戸惑いつつもそちらに足を向けた。
――――こんなところに。
ミュゼルは、エスティア港内を熟知している気になっていたが、貸倉庫郡一帯に関してはおざなりだったと言わざるを得ない。
この界隈でひとの行き来が盛んなのは、倉庫を借りられるほど財力のある大商人が船で乗り付けたときだけ。
それも非常に多くの人足を伴うので、煩雑時であれば邪魔にならないよう、かなり気を遣わねばならない。
逆に閑散時はさほどの面白みもなかったので、せいぜい近道程度にしか考えていなかった。
たしかに、後者であればこっそり、何者かが勝手に荷を運び込むのは可能で……――
「知らなかったわ。こんなところに雨露をしのげる場所があったなんて」
「ああ、問題だな」
「あなたは、そっちを改めてくれる? わたしはこっち」
「了解」
てきぱきと幌をどけ、二人で木箱を開ける。鍵はかかっておらず、簡素と言っていい。
ミュゼルの箱には前回と同じ白粉が。
ルピナスの箱は薬瓶らしく、なかから一本を取り出して傾け、しげしげと眺めている。
深緑の硝子。細長いフォルム。知らない文字でなにかを書きつけた、装飾的なラベルが貼ってある。
ルピナスは、む、と眉をひそめた。
「……“眠れる美女の”。間違いない。これだ」
「読めるの、ルピナス?」
「もちろん。私は王都でも」
「――……ちょっと、あんたたち。数は確認したの? あたしは白粉三十に、美容薬十六できっちり揃えたわ。納得したなら五十万フルール、さっさと寄越しなさい」
「!」
「わかってる。ちょっと待て」
はきはきと返事をするルピナスに、女の急な接近で固まっていた体がびくりと跳ねる。
石壁と赤レンガの外壁の隙間はとても狭く、張り出した屋根の低さも相まって薄暗い。
そんななか響いた女の声は心なし低められ、いかにも闇商人らしい物騒さを醸していた。
おまけに、効かないとわかっていても至近距離で嗅ぐ香のきつさは耐えがたく、ミュゼルは思わず呻く。今更だが、女がなぜ口布をしているのかわかった気がした。
カタン、と蓋を閉める。
「あったわ。白粉三十」
「こっちも。さっき確認済みだけどもう一度見た。ちょうど十六本。最初に半々と言ったが、数に偏りがあるのはなぜだ? ……手持ちの、持ち込んだ品の在庫がないから?」
「べつに。一昨日、そっちのお嬢さんが金額を指定したから。単価が違うのよ。白粉は一個八千フルールだけど、薬瓶は一本一万六千フルール。はじめに聞いた予算を折半して、だいたいの数を割り当てただけ。わかった?」
「なるほど。ちなみに売値の希望は?」
腰に手を当てたルピナスが、淡々と話を繋げた。
その間、ミュゼルは打ち合わせ通り手持ちの鞄から小分けにした革袋を取り出し、それぞれに一万フルール金貨が十枚ずつ入っていることを確認する。それらを五つ、抱えた。
女の視線がこちらに流される。
「……おかしなことを訊くのね。あんたたちがそれを、幾らで売ろうと構わない。あたしはただ、それが貴族や城づとめの人間に流行して、ゼローナの王族にまで広まればいいかなって、思ってるだけよ」
「!!」