10 華やかなりし恋の夢。そは我が身には遠く
「久しぶり、ミュゼル」
「! ルピナス……!?」
ミュゼルは目を疑った。
昨夜、夜半に目覚めたときはすでに自室の寝台の上だった。部屋付きの侍女に半泣きで喜ばれ、すぐに父と兄が呼ばれた。
――もう、こんなお転婆はやめてくれと諭され、さもなくば嫁ぎ先で身ごもったミュゼルの姉の見舞いに行った母を呼び戻すと脅され、二つ返事で「もうしません」と約束させられて。
そうして翌朝、父に連れられて部屋に来たのが旧知のルピナスだった。
相変わらずの麗しさだが、記憶よりも骨格がしっかりしていた。伸び盛りというやつだろうか。
とはいえ、ずんぐり体型で恰幅のいい父・ミュラーに並ぶと、いっそう冴えた美貌が際立つ。きらきらしい北の導べ星と、一部貴族の間で評判なのも頷けた。(※本人は知らないだろうから、口をつぐんでおく)
ルピナスはいっとき、緊張したように身構えていたが、やがて苦笑しつつ首を傾げる。
「……私を、覚えてる?」
「やだ、当たり前じゃない! 相も変わらず美人なんだから……。でもどうして? 貴方が東都にいらっしゃるなんて、全然知らなかったわ。今年から王太子殿下付き近衛騎士になられたのは、知ってたけど」
「あ、いや。そういうことではなくて………………まぁいいか。ええと、翔ばされたんだ。トール殿下に」
「?? ええぇっ!?」
そこからかいつまんで話されたのは、王城でのやり取り。王太子サジェスが彼を自身の代理として東都に遣わした経緯だった。王都での被害状況、および調査が難航していることも。
一通り聞き終えたミュゼルが「そうなんだ」と息をつくのと、枕元で二人を見守っていたミュラーが感心したように呟くのは同時だった。
「二人とも本当に仲がいいんだね。ルピナス殿、どうだろう? 昨夜も申し上げた通り、良かったらこの件が済めば婚約など」
「ぶふっ」
「!!! なな、何を……? お父様!」
突然の申し出に、侍女から茶席を整えられていたルピナスは早速吹いた。ミュゼルも寝台で体を起こしつつ、淑女にあるまじき大声で抗議する。
ものの喩えだよ、というわけのわからないミュラーの微笑みに、部屋のなかの空気がちょっと変わった。それまでは事件のこともあり、わりと張り詰めていた気がするのだが……。
こほん、と咳払いをしたミュラーが、もっともらしく瞑目して顎髭をしごく。
「だがな、ミュゼル。あとで彼にちゃんとお礼を言いなさい。港の路地裏で倒れていたお前を見つけて、介抱までしてくださって。挙げ句『もの忘れの香』を嗅がされたお前に、手ずから薬を与えてくれたんだから」
「へ……?」
「!!! 閣下っ! それは」
とたんに、耳まで赤くしたルピナスが声を張る。
かたや、ミュゼルは間抜けな声しか出なかった。
(路地裏。もの忘れ………………っ、あ!?)
思 い 出 し た。
そう、自分は相手の尻尾を掴んだつもりで、すっかりやり込められていた。自分の名も家も忘れてしまっていたわずかな時間の記憶も残っており、今更ながら青ざめる。
が。
次の瞬間、赤面した。
「薬って。あれ……!? ご、ごめんなさい、ルピナス。あの、ああああんなことさせちゃって」
「えっ!? ちが、いや違わないけど。その、こっちこそごめん。ほかに手段が思い付かなくて、無理に――」
バターーーーン!
「「「!?!?」」」
「何だとッ!!? 貴殿、やっぱりそういう!!」
三人とも弾かれたように顔を上げた。
扉を開け放ち、つかつかと険しい表情のレナードが入室する。昨夜のしょんぼり顔とは打って変わっていた。
まぁまあ、と取りなす父の姿に、ミュゼルは、今朝はなぜ兄が不在だったかという理由を悟った。思わず口角を下げる。
兄が自分を可愛がってくれるのはありがたいが、この場合は勘違いもいいところだろう。
なぜなら、彼は。
「――ルピナス。姉君のアイリス様はお元気? もうすぐお式だもの。お忙しいでしょう?」
「あ、あぁ、うん。私が来る直前も衣装の仮縫いで半日、衣装室に閉じ込められてたな」
「トール殿下は、お変わりないのがわかったけど。アストラッド殿下はいかがかしら。いまも南都へ?」
「……そうだね。彼はヨルナ殿に夢中だから。四ヶ月後の式典に合わせて南公家の方々と一緒に王都入りされると聞いた」
「そう」
ふわり、と笑む。
二年前。
成り行きではあったが、十五歳だった第三王子アストラッドと十二歳だった南公息女ヨルナの恋を、わたしたちは見守った。居合わせた側の二人として、しっかり相通ずるものがある。
――……あるはずだ。
いっぽうのルピナスは、人知れず恋に敗れて。自分は物語の脇役よろしく、ただ見守っていたという違いはあるものの。
ルピナスの想いは、彼女のような美の結晶のごとき少女に捧げられるべきだと、たしかに思う。
だが、それはそれ。
今はささいなことに青くなったり、赤くなったりしている場合ではない。
ミュゼルは、きりりと表情を改めた。
「お兄様、お父様」
「ん?」
「申し訳ありませんが、わたくしのしょっぱい婚約事情なんか、あとでいいですわ。
わたくし、昨日、件の密売人と思わしき女と接触しました。約も取り交してあります。明後日、同時刻に、もう一度あの場所に女が現れるはずです」
「!! それは! まことか」
「はい」
どんな女なのか。約束の内容は。
さっと態度を転じて議事に移る姿勢は、さすが我が父に兄だった。為政者として堂に入っている。
ちら、と傍らのルピナスに視線を流すと、何だろう。気遣わしげに見つめられていた。それに少し、ほんの少しだけ胸が痛みつつ。
ふるふると頭を振る。
平気、と仕草で伝えた。
深呼吸して父たちに向かう。
「騎士団に通達を。秘密裏に捕縛の準備をお願いします。当日はだれが何と言おうと、わたくしが交渉人として赴きますから」