9 公爵令息の受難
“能力”と呼ばれる、特別な魔法がある。
ルピナス自身は魔力に乏しく、簡単な灯りや補助魔法しか使えないが、代々魔族領との国境線をあずかる公爵家の人間として剣技を磨き、戦術を学んできた。
それらはある程度、努力でまかなえるから。
魔法もまた、魔力さえあれば誰にでも使える。
火や水などの元素魔法はその最たるものだ。
そうではなく、神殿の御教では創造神からの賜り物と伝えられる、個の研鑽とは全く関係ないもの。
およそ、どの系統にも属さないものは全て引っくるめてギフトと称した。
この国――ゼローナ――が、ほかのどの国よりも大きく、さらに富めるのは王家に連綿と伝わる、とあるギフトに起因する。
「参った……。勘弁してください、トール殿下。なんだって、こうも簡単にひとを『翔ばす』んです……?」
鬱々とこぼした声音は潮風にさらわれた。
ルピナスは、気づくと海に面した埠頭に立っていた。
背後からは「おかーーさん!! あのお兄ちゃん、急に出てきたよ!?!?」などと聞こえたが、全霊で無視する。常識家らしい母親が嗜めてくれているので、大いに助かった。
無の境地。
腕を組み、いかにも海と船を眺めに来た体を装い、頭のなかはフル回転。必死に現状を整理した。
初めて目にしたが、ここまで整えられた港があるのは、ゼローナでは東公領だけ。
すなわちここはエスト公爵が治める都エスティアのはず。つまり、ゼローナ王室に脈々と伝わる“転移”のギフトで、一瞬で翔ばされたらしい。
(せめて、一言断ってほしかった)
今ごろ、王城ではちょっとした騒ぎではないだろうか。
仮にも王太子の未来の義弟。いちおう、北公家嫡子でもある。繊細なところのある姉に、あまり心配をかけたくはないのだが……。
「まあ、来ちゃったものはしょうがないか。とりあえず騎士団の詰め所か公邸をめざそう。――門前払い、されなきゃいいけど」
確認した限り、所持品は剣と財布。それにトールから預かった小瓶のみ。
剣の柄と鞘にはジェイド公爵家の家紋が刻まれているし、王城では近衛騎士団の制服をまとっていた。
今年、王家付き正騎士に叙せられたこともあり、丈の長い詰め襟の黒衣はそれなりに目立つ。
そんな形の男が大真面目な顔で、誰彼構わず道を尋ねるのもおかしいかなと憂慮した。
くるりと振り向いたルピナスは、煌めく蒼海に背を向けて当てずっぽうに人の流れに従うことにした。――うまく行けば、見廻り中の東公領騎士団の者と会えるかもしれない。
予感とは少し違ったが、活気あふれる露店街に差しかかったとき、一人の少年から気忙しげに声をかけられた。
あれよあれよと言う間に怪しげな路地裏に連れてゆかれ――――
細い、建物の隙間にうつ伏せで倒れる女性を目にした。
そのときはまだ、相手があの東公息女だとは気づけなかった。
* * *
「ん……だれ? あなた」
「! 大丈夫か。きみ、何があった……………………え?」
「??? え?」
幸いなことに、膝をついて抱き起こした女性はすぐに目を覚ました。その時点で少年は立ち去っていた。
幼い頃からたくましく育った、下町の民のようだった。
こういうときの彼らは、厄介ごとの気配を鋭敏に嗅ぎ分ける。あの少年もまた、つとめは終えたとばかりに本能に従って離脱したのだろう。
が、ルピナスは公子である。
正騎士の面子にもかけて、(※たとえ見知らぬ土地であっても)倒れた女性をそのままにしておくことなどできない。
そのため、彼女の意識が戻って心底安堵したのだが。
ルピナスは、顎が落ちるほど驚愕した。
なぜ。
「まさか…………ミュゼルなのか? どうして、そんな」
はくはくと口を開閉する藍色の髪の騎士に、山岳の民の衣装をまとう蜂蜜色の瞳の女性は怪訝そうな顔をした。
「ミュ、ゼ? 何それ、わたしの名前? あなたは誰。わたしを知ってる?」
「――は?」
たちの悪い冗談だと思った。失礼、と断り、彼女の帽子を外す。
まだ抱かれたままの彼女はぼうっとしており、ふんわりとした容貌の白い面は記憶通り。おっとりとみひらかれた金と見紛う瞳は目尻が垂れ、やや低めの鼻。前髪はすっきりと上げて人好きがする。まろやかな額が特徴的だった。
さらに、ほのかな赤みを帯びる、エスト家に現れやすいみごとなストロベリーブロンド。きっちりと編み込まれているが間違いなかった。
ルピナスは確信を込めて囁いた。
「きみはミュゼル。ミュゼル・エスト。私はジェイド家のルピナスだ。……覚えてない? そもそも、なんで一人で」
(!!)
そこで、ハッとした。
公爵令嬢である彼女のありえない出で立ちと状況。加えて自分が知る限りの彼女の性格。つまり。
ルピナスは、いっそう声を低めた。
「きみ、まさかここで、誰かと会った? 何か買った?」
「え、ええ。取引したのよ。外つ国渡りの白粉をいくらか。三日後、またここで――」
「はいわかった。これ飲んで」
「――えっ?」
きょとん、とするミュゼルの口先に、小瓶から出した丸薬を突きつける。
しかし、ものすごく嫌そうな顔をされた。
「やだ。そんな怪しげなもの飲めないわ。……倒れてたから? 介抱してくださったのは助かるけど。もう平気よ、ありがとう。離してくださらない?」
「…………」
そこで。
ぷちん、と、いわゆる堪忍袋の緒が切れた。
さんざん理不尽な目に遭った。
久々に会えた友人は、あろうことか向こう見ずな潜入捜査をしており、完全なる記憶喪失。助けようにも知らないやつ扱いで、叱り飛ばすこともできない。
むかむか、むかむか。込み上げる激情が自棄だとか、八つ当たりめいた感情だったのは否めない。さっと、つまんだ丸薬を自分の口に放り入れて奥歯で噛む。
(!! 不、味……!)
言いようのない酸味と苦味。それらをなるべく味わわないように舌先にとどめ、呆然とするミュゼルの顔を引き寄せた。
ちょっと暴れられたけど、むりやり嚥下させた。
『……え? お前っ、何を。…………いや、きみは!??』
再び寝入ってしまった彼女を抱きしめ、ホッとして唇を離した。
彼女の兄レナードが駆けつけたのは、そんな瞬間だった。