第五話 本能と理性
ロンバウトはやはり肉が大好きらしく、肉屋の前で立ち止まってしまった。その肉屋の店先では、一抱えもあるほど大きな肉の塊を回転させながら焼いていて、とてもいい匂いが辺りに漂っている。ロンバウトにとっては抗い難い匂いに違いない。彼は物欲しそうに肉塊を見つめていた。
「それを十切れください」
そう頼むと、店主がナイフで器用に肉を削ぎ取って紙で包んでくれる。料金を払っていると、ちょっと戸惑ったように、ロンバウトが私の顔と肉の入った紙袋を交互に見ていた。
「町の調査費名目でお小遣いをもらってきたの。ほら、取り扱っている肉の質がわかるから仕入れる時の参考になるでしょう? ねえ、お肉は嫌い?」
そう訊くと、彼は盛大に首を振った。そして、尻尾も同じように揺れている。
「あっちに公園があるのよ。そこのベンチに座って食べましょう」
公園の方を指差すと、ロンバウトは満面の笑みを浮かべた。その笑顔も揺れる尻尾も本当に可愛い。私まで笑顔になってしまいそうだ。
ロンバウトを受け入れることで王宮から定期的にお金が支払われることになったらしい。団長はその殆どを独身寮の管理費に当ててくれた。だから、寮の管理費が一割も増えたのだ。
身を挺して王太子夫妻を護ったロンバウトなのに、獣化したからと追い出して、お金さえ払えばそれで済むだろうというような王宮の態度は納得できないけど、くれるというのなら有難くもらっておこうと父は言った。お金があることで独身寮をより快適にできることもあるからと。
父は今月の増えた分をロンバウトの歓迎会に使うつもりだ。大きな肉の塊をじっくりと焼くこの肉屋の料理に挑戦したいらしい。私は果物のタルトを作ってみたい。だから、今日は味見の役目も担っているのだ。
公園へ入ると土の道に変わる。ロンバウトは石の道より歩きやすそうだった。
春のうららかな午後、柔らかな風が木の葉を揺らしていた。彼は揺れる葉が気になるようだけれど、肉の方がより魅力があるようで、立ち止まることなく私についてきた。
公園の中央には温泉が流れ出ている手洗い場があるので、そこで手を洗うことにする。少し暖かい温泉が気持ちいい。
「ここの水は温泉なのよ。飲むことだってできるの。体に良いのだって」
そう言って両手で温泉を汲んで口に含んで見せた。微かに酸味がするけれど、喉が渇いているのでとても美味しい。ロンバウトも同じようにして温泉を飲んでいる。彼の掌には毛も肉球もなく、普通の人と同じだ。顔にも毛が生えていない。口を開けると尖った牙が見えるけれど、顔はかなり端正だ。
貴族の生まれで恵まれた容姿。そして、とても強い近衛騎士。魔女に呪われるようなことがなければ、ロンバウトは光の中を歩み続ける人だったと思う。煌びやかな王宮で、物語に出てくるお姫様のように美しい女性と出会って、大恋愛の末に結ばれて幸せに暮らす。そんな人生だったのだろう。
少なくとも、こんな小さな町の独身寮で暮らすようなことにはならなかったはずだ。
ここまで運命が変わってしまったことを、彼は本当に受け入れているのだろうか?
何も不満がないということは、全てに絶望して諦めてきっているからかもしれない。でも、少しでもここに来て良かったと思ってもらいたい。父も母も、兄夫婦と姉夫婦だってそう思っている。
「半分はお父さんへのお土産。肉質と味を確かめたいらしいの。私は一切れね。残りは食べていいのよ」
肉の四切れを紙に包んで渡すと、ロンバウトは本当に嬉しそうに受け取った。その幸せそうな様子が嬉しくて、私も残った一切れにかじりついた。香ばしくて柔らかくとても美味しい。肉はそれほど厚くないけれどかなり長いので、私は一切れで十分だった。
ロンバウトは時折舌で口と指を舐めながら美味しそうに食べている。四切れをあっという間に完食してしまった。
「今度町へ来た時、また買いましょうね」
そう言うと、ロンバウトは嬉しそうに何度も頷いていた。
こうしてようやく騎士団駐屯地へ帰ってきた時には夕方になっていた。
少し疲れたけれど、町はとても楽しかった。ロンバウトも同じ気持ちならいいなと思う。
彼は訓練場を走り出したので、疲れてはいないようだけどね。
父はもう夕食の用意を始めているだろうから、手伝うために調理室へ向かっていると、後ろから私を呼ぶ声がした。
「アニカ、あの獣と一緒に町へ行ったんだって。何もされなかったか? 不用意に近づくと危険だぞ」
この声はデニスに違いない。相変わらずロンバウトを獣呼ばわりして感じが悪い。
「ロンバウトさんは獣化しているだけで、獣ではないわ。立派な騎士よ」
振り返りってそう言うと、デニスの顔に侮蔑の色が浮かんだ。
「本能のままに生きているような奴が立派な騎士なのか? アニカ、目を覚ませ。襲われてからじゃ遅いんだぞ」
デニスが私の肩を掴んだ。かなりの力で痛みを感じる。
「ロンバウトさんは女性を襲ったりしないもの」
その手を振り払おうとしても、びくともしない。
「俺からだって逃げられないだろう? 奴の力はこんなもんじゃないぞ」
「ガルル!」
突然獣のような唸り声がした。そして、牙をむき出しにしたロンバウトが近くに立っている。訓練場を走っていたはずなのに、なぜここに?
ロンバウトはデニスの手首を掴んで持ち上げた。
「痛い!」
強く握られているらしく、デニスの指が紫色に変わっていく。
「止めて。デニスさんは私を心配してくれているだけだから。お願い手を放して」
ロンバウトは渋々デニスの手首を放した。そして、私の方を心配そうに見ていた。
今まで幸せそうに笑っているロンバウトしか見たことがなかった。初めて怒った顔を見たけれど、少しも怖くなかった。私を助けてくれようとしたとわかっているから。