閑話:人として在り続けるために
「獣化した騎士とは、また面倒な者を引き受けたものだな」
辺境伯の留守を預かっていたボンネフェルト騎士団の団長は、王宮から帰ってきた兄の辺境伯に向かって呆れたように肩をすくめてみせた。
「王宮騎士団長にそれとなく引き取ってくれと言われた時は、断ろうと思ったんだかな。話を聞いてみると、他の騎士が逃げ出す中で王太子夫妻を最後まで護り、剰え、獣化させられながらも魔女に反撃して押し返したらしい。それなのに、王宮の貴族たちはあいつを責めるんだぜ。魔女の報復が怖いといって。そんな理不尽な目に遭っても、あいつは凛と立っていた。そんな騎士を見逃す手はないだろう?」
憮然としながら辺境伯は答えた。王宮での会議の様子を思い出して怒りが蘇ってきたらしい。
「護衛対象を見捨てて逃げ出すとは、その獣化したやつ以外の王宮騎士は本当に情けないな。文句を言う王宮の貴族も自分勝手すぎる」
自分なら逃げた奴らを解雇してやるのにと、ボンネフェルト騎士団長は顔を顰める。
「確かに。だが、王宮医師団はまだましだったようだ。呪いを解けないか徹底的に調べてみたいとの申し出あったので、ロンバウトがこちらに来るのは十日後くらいになる」
「それって、体のいい実験体なのではないのか?」
団長は王宮医師団も疑っている。少なくとも全くの善意だけではないと感じていた。
「そうかもな。呪いや魔法など、その存在すら知られていないので、呪いを解くのは絶望的だと聞いている。まあ、万が一成功することがないともいえないので、禁止するわけにもいかんだろう。とにかく、十日後には走って来るだろう」
辺境伯も王宮の医師たちを絶対的に信用しているわけではないが、ロンバウトを無下に扱ったりしないだろうとは思っていた。
「走って来るのか? 王宮からここまで?」
馬でも十日近くかかる距離である。人が走って来るとしたら何日かかるのか団長には予想もできない。
「馬がロンバウトを恐れるらしい。森で最強の、大いなる神との名を持つ聖獣の姿だしな。馬に乗ることができないので走るしかない。しかし、馬より早く走れるらしいので、問題は何もない」
「何だよ、それ。全く愉快な奴だな。それじゃ、そいつはうちが面倒をみようか? 騎士の人数は少ないが、ボンネフェルトは町の住人に対する騎士の割合が一番高い。それに、騎士一人ひとりの練度も一番だ」
それは嘘ではなかった。ボンネフェルトは辺境伯領の中で一番王都に近い町だ。他国から攻められ、辺境騎士団が突破された場合、最終防衛の町は最後の決戦の地となるのだ。そのため、住民は少ない長閑で小さな町だが、駐屯している騎士は三百人に上る。
「そうだな。それがいいだろう。広い訓練場を持つボンネフェルト騎士団ならば、ロンバウトものびのび過ごせる。寮長はあのブレフトだよな。独身寮に入ってもらうか」
辺境伯は弟の申し出に鷹揚に頷いた。
元騎士であるブレフトは、先代の寮長の娘に惚れて押しかけるように入り婿に収まった。彼女は独身寮に住む騎士たちに大人気だったが、ブレフトが全て蹴散らしてしまったので、その強さが測れるというものだ。
「独身寮の部屋は狭いが、ブレストの料理は美味いからな。町暮らさせるのも不安だから、しばらく我慢してもらおうか」
こうして、ロンバウトの行き先はボンネフェルト騎士団独身寮と決まった。
そんな話し合いがあった十日後、ロンバウトはボンネフェルトの町にたった一人でやって来た。もちろん馬に乗らず走ってきたのだ。王宮医師団が総力を挙げても呪いを解くことは叶わなかった。それはロンバウトも覚悟していたことだ。しかし、少々気落ちしてしまったことは否めない。
「よく来たな。待っていたぞ。我が騎士団で存分に力を発揮してくれ」
団長室にやって来たロンバウトに向かって、団長は躊躇いもなく手を差し出した。ロンバウトが爪の尖った手で握手すると、団長は口角を上げて手に力を込める。戸惑いながらもロンバウトが少し力を入れると、団長は顔を顰めた。
「さすがの力だな。まあ、加減もできるようだから心配はいらないだろう。腹は減っていないか? もうすぐ昼時だ。一緒に食堂へ行こうぜ」
食堂と聞いてロンバウトが破顔した。本当に空腹だったのだ。王都からの道中は町に立ち寄ることもなく、野営しながら持ってきた携帯食と狩った小動物や魚で凌いでいた。騎乗の旅よりは半分の五日でこの町に着いたが、とても満足な食事をとっていたとはいえない。
あまりにロンバウトが嬉しそうなので、団長は声を上げて笑い出した。
「その前に風呂に入れ。臭うぞ」
姿は異形だが、動作は思った以上に洗練されている。さすが近衛騎士だと団長は思うが、五日間も宿に泊まらず走り抜けてきたロンバウトは、獣のような異臭を放っていて、このまま食堂に連れて行けば顰蹙を買うのは目に見えている。
風呂に入り汗と埃を洗い流したロンバウトは、さっぱりとした分、空腹を強く感じるようになっていた。
広い食堂には騎士がひしめき合っている。そんな中で団長がロンバウトを紹介した。
「本日付で我がボンネフェルト騎士団に配属されたロンバウトだ。年齢は二十一歳。伯爵家の三男だったが既に貴族籍から外れているので、ここでは平民の騎士と同じ扱いとなる。見ての通り、このような姿になっており、言葉も発することができないが、これからは皆の仲間となるのだ。どうか、仲良くしてやってくれ」
彼の声はよく通って調理場にいる者たちにも届く。皆の目は一斉にロンバウト向けられた。そんな眼差しをものともせず、ロンバウトは笑顔を見せた。漂ってくる良い匂いに期待が大いに膨らんでいる。
ロンバウトの予想通り、食堂の食事は素晴らしかった。一食分ではとても足りないほどだ。
そして、大盛りの肉料理が入った深皿を載せたトレイを渡してくれた若い娘の目に浮かぶのが、恐れでもなく、ましてや哀れみでもないことにロンバウトは驚いた。彼女の目は純粋に好奇心に輝いてる。鋭い手の爪を見ても微笑んでいた。
彼女の名はアニカ。ブレフトの末娘で独身寮の管理の手伝いをしていた。
アニカの笑顔は心地良い。恐怖や嘲りの目に晒され、時には獣扱いされ無遠慮に尾や耳を触られるロンバウトの傷ついた心を癒していくようだった。
そんなアニカに感謝を伝えたいと思い、ロンバウトは地面に文字を書いた。人であることを諦めきっていた彼が久しぶりに書いた文字だ。
目を見開いてそんな文字を見ていたアニカは、彼が見事な文字を書けることを家族に伝えると、ブレフトが木枠に小さな石板を嵌めたものをロンバウトに渡した。
それはロンバウトの宝物になる。
紐をつけ肩にかけられるようにしたり、木枠に小さな箱を作って蝋石や文字を消すのに使う毛糸の編み物を収納できるようにしたりと、ロンバウトの宝物は進化していった。
その宝物は、ロンバウトを人として押し留める大切な道具だ。たとえどれほど姿かたちが変わっても、想いを伝えることができる石板がある限り、ロンバウトは人たりえたのだ。