何気ない日々は何気なく……
それはある、冬の始まりだった。
僕はいつもの様に自転車を走らせている。
気温は十度に満たず、吐いた息が白く色づいては消えていく。
吹き付ける風は、夏に感じた鬱陶しい蒸し暑さを懐かしく思うほどに、身体の芯まで凍りつかせる。
少し前まで額に汗を浮かべながら半袖で自転車をこいでいたのに、今は厚手のコートを着て手袋をしても、冷蔵庫の中にいるみたな寒さだ。
どうして暑かったり寒かったりするのか。どっちか片方ならまだ我慢の方向性を絞れるというのに。
と、バカな事を考えながら、いつもの道を走り、いつもの橋を渡り、いつもの信号で自転車を止める。
さて、ここからがけっこう長い。
この信号は、僕の通う学校の生徒にはけっこう名の知られたやつだったりする。
別名『嫌がらせの信号』。
車の通行量が皆無なくせに、一度歩行者信号が赤になると五分近く青に変わらない厄介なやつだ。
それにこの信号、あろうことか学校の少しだけ手前にある。
あと少しで目的地だというのに、突如として現れる微妙に長い足止め。ここを越えてしまえば走れば三分。自転車なら急げば一分とかからない。
まったくもって嫌がらせとしか思えない。
そしてこいつが僕も含めて他の生徒にとって、最大の脅威となるのは、寝坊やなんかで遅刻しそうな日だ。その時ばかりはこのチンケな嫌がらせ信号が、長期休暇明け直前に思い出してしまった面倒な課題と同じに見える。
この信号を越えて少し行けば、すぐにでも校門があり、遅刻ぎりぎりの時には、幾人もの生徒が息を切らして駆け込むのが見られる。
そんな場所に不動の人物が一人。校門を閉めようとする担当教師が仁王立ちでジッと、信号待ちをする僕たちの方を見ている。
理由は単純明快。僕たち生徒が信号無視をしないように見張っているのだ。
赤信号であることを無視して渡れば、その瞬間に行き急いだ哀れな生徒の小さな不正は教師の知る所となる。
遅刻を回避し校門をくぐれたとしても、行き先は教室ではなく、そのまま生徒指導室へ直行となった。
ほんとうに、タチが悪い。
しかし、今日のような時間に余裕がある日はただの長い赤信号だ。
正直言ってうんざりしている。けれど、あらかじめ長いと分かっているならちょっと本を読んでみるなり友達と話すなりでいくらでも時間は潰せる。
しかしはあいにく、今日は無駄話を語れる友人も、暇をつぶせる本もない。
周りには誰もいない。同じように自転車通学の生徒も、朝のジョギングをする社会人も、犬の散歩をする老人も、見える限りに人影はない。もちろん車は一台も走っていない。
今、僕は一人だ。
特にやることもないので、信号が変わるのをただ待つ。
ただ何もせずに過ごす五分は思ったよりも長く感じられ、何度か腕時計を確認しては、まだかまだかと頭の中で繰り返し呟いた。
時折吹く風に体を震わせ、手袋をとって指先に息を当てる。
そうこうしていると後ろから、ガラガラと、何かが地面を転がる音がした。
音はだんだん近づいて、ちょうど僕の隣でピタリと消えた。
見ると、同年齢くらいの少女が一人立っていた。
背丈は僕の肩ほどで、伸ばした黒髪がサラリと揺れている。暖かそうなベージュのコートに身を包み、右手に地図を持ち、左手に大きなキャリーバックを携えて、なにやらウンウンと唸っている。
少女は地図を横にしたり縦にしたり、斜めにしたり裏から透かして見たり、何かを思い出したかのように辺りを見渡したりしていた。
なるほど、と思った。
とくに深く考えなくとも、そんな光景を見れば十中八九理解できる。
この少女は旅行者で、今は道に迷っている! と。
こんな状況、心の優しい人物なら見かねて道案内の一つでもやるかもしれない。
僕はそれなりに善良な高校生を心掛けていて、ついでにこの辺の地理はある程度把握している。この少女にとってはちょうど良い案内人足り得る存在だろう。
しかし、残念ながらこの辺りの観光名所は全く知らない。教えられるのはコンビニやスーパーの位置くらいで、あとは学生御用達の飲食店をいくつかだ。
今、この少女に話しかけても僕はなんの解決策も提示出来ないだろう。
けれども、だ。例え役に立てなくても、困っている人がいて、それを手助けしようとするのは正しいことだ。
「よし!」と、少しだけキャシャな声がした。
チラリと目をやる。少女が、ふぅ、と息を吐いてパタパタと地図を折りたたんでいた。どうやら目的地までの道のりは分かったようだ。
その姿に少しだけ安堵し、同時に気がかりでもあった。
今しがたの少女の声は、何かを理解したというよりは、不安ながらも何かを決意した声な気がした。もしもこの少女が中途半端な理解だけで目的地まで行こうと決めたのであれば、僕はその行動を止めるべきだろう。先程までの困り様を見る限り、目的地に着くまで地図は見ている方が良いのではないかとも思うが、行くべき道が分かっているのなら口出しは要らぬ世話というものかもしれない。
そうやってウンウンと、勝手に一人で悩み、一人で納得しかけていると、車道の信号が青から黄色へ、そして赤へと変わった。
それはこの信号で足止めされる生徒にとってのスタート準備の合図だ。
瞬間、僕は無意識にペダルに足をかけていた。長かった足止めも終わりと、待ちに待った青を待つ。
そして、ハッとした。まったく習慣とは恐ろしい物で、理性とは全く別の回路で動いている。ついさきほどまでけっこう気にかけていた見知らぬ少女を、なんの感慨も無く置いていこうとしているのだから、まったく恥ずかしい限りだ。
僕はペダルから足を降ろすと、ハァと息を吐く。白い息が先ほどまでよりも白く見えた。
そうして少女に少しばかりの助言をと思った時、瞬間、ポンポンと、背中に軽く何かが当たった。
「――ッ!」
驚いてバランスを崩しそうになり、慌ててブレーキを握る。タイヤが固定されて自転車はほとんど動かない。代わりに僕の心臓はドクドクと大慌てだ。
あまりにも突然の事だったので目をパチクリさせながら、何も考えずに振り返ると、そこには先の少女が、申し訳なさと愛想笑いとを足して二で割った様な顔をしていた。
少女の左手はあいさつでもするかのようにかるく上げられていて、同時にそれは、何かをつかみ損ねて持て余しているようにも見えた。
「あ、あははは、は、は、………。ごめんね、いきなり背中叩いて」
僕がまだ状況を理解できない中で、少女は声をかけてきた。