壱 雪山姥 出会い
俺は、恐れているのか。
震えで奥歯が噛み合わさらない。視界は狭く、体は指一本動かすことができない。もう腕の先はないのかもしれないが、それを確かめる術もない。
薄暗く狭い場所にいた。小屋なのかカマクラなのかさえ判然とせず、明瞭でない景色のかわりに音だけは頭いっぱいに響いていた。
ごうごうと吹雪く雪山。ガチガチと鳴る奥歯。そしてごりっ、ごりっ、と削る音。いや殺いでいるのかもしれない。
全身の震えが止まらない理由は、寒さだけではない。
否が応でも思い出される記憶は、走馬燈だろうか。
今回の狩りの前日、同輩からこの地方にまつわる雪山姥の伝承を聞いた。
雪山姥はその名の通り、雪のような白髪に枯れ枝の四肢を持った老婆の姿をしている。神力まがいの天候を操る力を持ち、怪力は人の身など簡単に千切り裂いてしまうほどだという。
そして、彼女の領域に踏み込んだ者はそれは惨い結末を迎える。安らかに死ねることはなく、最後には魂を喰われ、輪廻の輪に戻れない。
そんな、現実味のない御伽噺。
『猩々の姿でも見間違えて、たまたま天候でも崩れたんだろ』
どこの地方にもある、存在を確認できない妖の噺。盛り上がっていた同輩たちを白けさせた俺は、何故か、魂を喰われるという部分だけが強く記憶に残っていた。
それから、俺たちは一年中吹雪いている四山脈の最奥にある瑚絶岳にたどり着いた。
モウルの里を襲った巨獣、白尾申はついに瑚絶岳まで逃げ込んだ。白尾申は俺たちを惑わすように蛇行した痕跡を残したが、香気矢の匂いは三日は消えない。居場所がわかるうちに確実に仕留めなければならなかった。
俺たちは瑚絶岳の山頂でやっと白尾申を追いつめたのだが、窮鼠猫を噛むというやつだろうか、四肢を失った瀕死のヤツはその巨大な牙で俺を咥えると、自身ともに雪渓亀裂に引きずり込んだ。
俺にはそこまでの記憶しかない。なのにこの状態は――――同輩の言葉が蘇る。
魂を喰われ、輪廻れない。
「っは……ぁ」
無駄な抵抗とわかっているのに、その者の意識がこちらに向かないようにと呼吸を殺そうとした。しかしどんなに堪えても、苦痛から吐息がもれる。
痛みと恐怖。
白尾申の牙を前にしても、これほどの恐れに囚われることはなかったというのに。
しかし虚しくも人影はゆっくりと振り返る。霞んで顔は見えず、長い髪が落ちる。それは、老婆のような白髪。
雪山姥は実在していた。そう信じれるほどに人ならざる空気を纏っていた。
喰われてしまうのか。
輪郭がぼやけ、視界が滲む。世界が歪み、遠くなる色に、命が消えかけていることに気づいた。
「……――に……たく、な……」
氷のように冷えた刃物が、ひやりと頬から首筋にあてられた。対比して、未だ熱をもった自身の血流を感じる。いずれこの流れも止められてしまうのだ。
死にたくない。しかし、魂が喰われるくらいならば――――再び妹に出会うことが叶わぬのならば、いっそ今、鼓動よ止まってくれ。
「……っがぁ……あ、ぐ」
願い虚しく、どろりと俺の喉元を毒が伝った。生への執着の隙間から流し込まれた、焼け焦げそうなほどの激しい痛み。苦しい痛み。苦い痛み。
そして急激な眠気に襲われる。無感が俺の全身を深淵に引きずり込んでいく。抗わなければと動かない手をのばすと、それを掴み返す手があった。
❅
ごりごりと削る音。コポコポと粘性の液体が沸き立つ音。ザクザクと包丁でネギを切る音。
瞼を開けると木目の天井。明るいが右側の視界は何かに遮られている。
体は怠くて動かせそうにないが、休んでいればそのうち起き上がれる程度の自信はあった。季節外れの重篤な風邪、それに近かったからだ。
微睡みの中、俺は柔らかい布団に包まれ、朝餉ができるのを待っていた。
熱が出た時に作るネギが半分を占める粥。瑞葉のそれを食えるのが楽しみで、俺は起こされるまで眠ったふりをしていようと再び瞼を閉じた、が。
待て、妹はもういない……夢か?
なんと幸せな夢だ。しかしそう思い込むには些か現実味がありすぎた。
俺が音の方に視線を向けると、俵が動いていた。
「――――っ、」
吸った息の唾が変なところに入り、咽る。その咳の動作は、予想だにしない全身の痛みを生んだ。喉が剥がれ、内臓が蠢き、肋骨に針が突き刺さる、ようだった。
なんだこれはッ、痛い……!?
あまりの苦しさに涙が浮かび、必死に耐えていると目の前に俵が来ていた。ぎょっと見上げた俺の頭を抱えて上体をお構いなしに起こす。俵は竹のヘラを俺の口に無理矢理突っ込み、それに沿わせてどろっとしたものを流し入れた。
「に、がっ……どく、か……!」
「違います。良薬は口に苦しというでしょう。我慢して飲んでください」
「!?」
涼やかな女の声に、俺は驚いて俵を見た。
が、俵ではなかった。藁に包まれていた女だった。
見える範囲で言うと、両手首と目元だけ人のそれだったので、声を聞いていなければ性別さえわからなかっただろう。
凝視していた俺に気づき、彼女は空色の瞳を僅かに細めた。
今度は腹部を絞るような苦しさに襲われ俺は苦悶の声をもらした。
「つらいでしょうが、今を耐えればまた動けるようになりますよ。あの状態で生きていたのですから、ちょっとくらい大丈夫でしょう?」
「き、み……は……?」
「さて、毒を疑う方に教える名はございませんね」
拗ねたように口を尖らした彼女は、そっぽを向いて立ち上がった。
俺はその様子をぼんやり見ていることしかできない。徐々に体が熱を持ち、先ほど飲まされた毒に思うほど苦い薬が効いてきたようだった。少し、痛みが弱まる。
彼女は囲炉裏を挟んで部屋の隅に行き、藁のような防寒着を脱いだ。
絹糸のような銀髪がはらりと垂れる。露になった肌は白磁のようになめらかで、透き通る瞳を見返すと苦しくなる。
人ならざる美しさをもった彼女は、おそらく――――
「――あや、か……し……」
「なっ」
俺の朦朧とした呟きが耳に入ったらしく、彼女は勢いよく俺を見た。口を開け、声を発する前に閉じることを何度か繰り返し、ふうっと息をはいた。
「…………そうです……私は、あやかし。あなたはご存知? 瑚絶には雪山姥の領域があることを。無断で足を踏み入れた者はとって喰われちゃうんですよ。
酷い目にあいたくなければ、その口を閉じて、目を閉じて、じっとしていなさい」
一段と低い声で、彼女は言った。
うっすらとした記憶に残る長い髪。死を覚悟したあの時、俺のそばにいたのは間違いなく彼女だろう。
楽になる体と、徐々にはっきりしてきた思考は、妖と名乗る彼女が俺を助けてくれた事実を認識させる。
凄んでみせているが、恐ろしさはまったく感じない。どこか幼子に言い聞かせる様に似ていた。
しかしそれを口に出せば、彼女の機嫌が悪くなることもなんとなくわかる。大人しく頷いた俺を見て、彼女は満足そうに微笑んだ。
随分と可愛らしい妖がいるものだと思った。
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