間(あわい) -first impression- ③
カラカラとやかましく鳴るベルの音がおさまり始めた頃、小さな息が聞こえてそちらを振り返る。
「あの」
「災難だったね」
「あ、ありがとうございました。庇ってくださって」
安堵と戸惑いの混在した彼女の表情に、いたわりを持って話しかける。
「目の前で女性が犯罪に巻き込まれかかっているんだ、当然のことだよ。しかし、あんな小芝居ごときで尻尾を巻くなんて……どうやら思った以上の腰抜けだったらしい」
「芝居?」
「法そのものも、『その筋』の知り合いが居るのも事実だけど、やりとりは完全に俺の一人芝居だよ。ただのフェイクだ」
「そうですか。よかった」
深い息を吐きつつ、今度こそ彼女は椅子にへたり込んだ。口元に浮いた安堵に思わずその不可解さを問う。
「よかったって、君は被害者だろう? なら」
「おっしゃりたいことは分かります。社会秩序の維持に、法はなくてはならないものだとも理解しています。けれどそれを用いて罰することは、少なからず人を歪めます。甘い、青臭いと言われるかもしれませんが、むやみに人を傷つけたくはないですし、それを目的に法を用いたくはないですから」
その言いようを、半ば呆れで、そして半ばを感嘆で受け止める。それほどまでに深い理解があったのかと、彼女の持つ知性と品格を窺い知ると同時に、素晴らしい何かを得たような、そんな清々(すがすが)しい気持ちになった。
「すみません。生意気なことを言って」
慌てて彼女が頭を下げる。
「いや。かえってよかったよ」
「え」
「法を執る者が持つべき『良心』を、改めて諭されたような気がした」
微笑みと共にありがとうと返すと、その顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「いえ、そんな。そんなこと」
ぶんぶんと首を振り、完全に落ち着きを失った反応が微笑ましくて。堪えきれずに少しだけ吹き出すと、なおのこと彼女が赤くなり縮こまった。
「でも……ちょっと残念、かな」
最後ぽそりと呟かれたそれに、かすかな期待と諦めを聞き取って。その真意を尋ねようとしたその時、裏の厨房の方から男性の声が聞こえてきた。
「ただいま」
そうして姿を現した人物、店主である野舘克幸は、真っ白にたくわえた髭の下で、いつもの穏やかな笑みを形作って見せた。
「やぁ英一君、いらっしゃい」
「どうも」
「えっ?!」
自分の返事と短い叫びが重なる。見やると、彼女は心底驚いた顔をして、慌てて厨房へと引っ込んで行ってしまった。
「どうしたんだろう」
「さぁ」
残された男二人で顔を見合わせてから、改めて席に着く。
「今日も来てくれたんだね、ありがとう」
「駅に着いたら克幸さんのコーヒーが飲みたくなったので。もうほとんど条件反射ですね」
「いや、そりゃあ冥利に尽きるねぇ。ようし、それならいつもどおり腕によりをかけて」
勇んで腕まくりを始めたところで、ふとその動きが止まる。
「ちょっと待っててくれるかい」
はいと返すや、すぐさま厨房へと引き下がってしまう。何事も言い置かれず、仕方なくそのまましばらく待っていると、カップを手にした克幸が戻ってきた。
「お待たせ」
言いながらカウンターに置かれたその中には、案の定褐色の液体が満たされている。
「まずは、これを飲んでみてくれないか」
「え」
「さあ」
いつものオリジナルブレンドよりも、若干香りが濃く思えるそれ。笑顔で圧され、戸惑いつつも口に含んだ。
「これは」
一口飲み下し、思わず声が漏れ出す。
「うまいかい?」
「ええ、とても。これは凄い」
深めのローストが醸し出すえも言われぬ芳しさ。それが鼻を抜けていくときの快感と、舌に触れるまろやかな酸味。そして絶妙なバランスで混在するコク、そしてのどごし。どれをとっても、自分好みとしか言いようがない逸品だった。
「だろうね。いや、そう言うだろうとは思っていたよ。期待どおりだ」
「どういうことです?」
「実はね、それを淹れたのは私じゃないんだ」
「えっ? じゃあ一体誰が」
「私の孫だよ」
口にされたそれになおも驚かされる。
「お孫さんが、どうして」
「その子も大のコーヒー党でね。元々味覚が鋭いうえに、研究熱心なところがあるんだ。いつだったか君の事を話したら、対抗心なのかな、君好みの究極のブレンドを作って挑戦すると言ってね。これまでずっと試行錯誤を繰り返していたのさ」
「それで、これが?」
解説を聞いて改めてカップの中身に目を落とす。揺らめく水色、奥深いそれに込められた情熱に改めて感嘆した。
いや、感激だな、と自ら訂正する。
「まさかこんな……誕生日に、こんなサプライズがあるなんて思ってもみませんでしたよ」
「そうか、今日は君の誕生日なのか! そいつはなおのこと都合がよかった」
いい贈り物になったな、と克幸は得意げに高く笑った。
「あの、克幸さん」
「ん?」
「この一杯を生み出してくれたお孫さんに、いつかお会いしたいんですが。色々共通点もありそうですし、それに凄く光栄で。お礼も言いたいですし」
「そうかそうか。いや実は……裏に居るんだがね」
え、と厨房を見遣る。自覚はなかったが、よほど熱のこもった視線だったのだろう、克幸が笑った。
「会っていくかい?」
「はい!」
「わかった」
にやにやと振り向いて声をかけた。
「おおい、こっちに出ておいで!」
すると。
「えっ……え?」
小柄で可憐な、先程まで空間を共にしていた彼女が、恥ずかしげにうつむいたまま現れた。
「この子が孫のジャスティナだよ。そして、その一杯を生み出した張本人だ」
「彼女が」
「ああ。是非、直接感想を伝えてやってくれ。きっと飛び上がって喜ぶだろうから」
ウインクをひとつ残し、ぽんと小さな背を叩いて孫を送り出すと、克幸は厨房へと去って行ってしまった。
再び彼女と対峙する。カウンターの内側に立ったまま、組んだ指をもじもじと所在なげに動かす彼女の姿。先程までとは少し違った緊張感に、なかなか話が切り出せず時が過ぎる。
「……あの、お口に合いました?」
「とても美味かった」
「本当に?」
「ああ」
「よかった」
「わざわざ俺の味覚に沿うブレンドを?」
こく、と無言の頷きが返ってきて、それだけで最高に嬉しくなる。
「素晴らしい才能だ。本当に感激したよ。感激しすぎて上手く言えないけど……あんな美味いコーヒーなら、それこそ毎日でも飲み続けたいくらいだ」
そうして目を見開き頬を赤らめた彼女の表情に、ふと己の言葉を反芻する。それから与えたのだろう誤解を覚り、訂正しようとしてかぶりを振った。
いや、待て。
本当に、そうなのか?
自問の直後に思い直し、刹那走ったひらめきをそのまま次いだ。
「あの」
「はい」
「さっきの話だけど、その……フェイクのままで終わらせたくないと思ってるんだ。アイツにあんな啖呵を切っておいて、自分がこんなことを言うのもなんだけど……本当に、俺とのことを考えてみてくれないかな」
「え」
怪訝そうな反応を得て冷静さを取り戻し、さっと青ざめる。
「いや、何を言ってるんだ俺は。すまない、ありえないよな、初対面なのにこんな大それたこと」
完全に常識外れの言行、あるまじき失態に己を心底恥じていると、彼女がうつむきつつも小さく呟いた。
「私も」
「え?」
「本当にそうだったらいいのになって思っていました」
白い顔全体が朱に染まり、頬を両手で包んで目を細める。その様子ににわかに期待感が高まった。
「それって、つまり」
「どうしよう。すごく嬉しい」
問いかけを遮るように、ふわりと花の咲くような微笑みが現れる。ほとんど答えだろうそれに、心を射抜かれ、鼓動がにわかに高まって、歓喜とともに身体全体に震えが走った。
「かわいい」
「え?」
「あ、いや、なんでも!」
ごほんとひとつ咳ばらいをして、ともすれば緩み切ってしまいそうな表情筋を自制する。それから何度か息をついて呼吸を整えた。
「と、とりあえず、今日はお互い冷静になれそうもないし……明日また出直して来てもいいかな?」
「はい」
「その時に改めて今後の話をしよう。ええと……ジャスティナ?」
親しげに名前を呼び、その返事を待つ。
「はい」
にわかに弾んだ声。そしてその面には、案の定、これからの日々に期待する、あふれんばかりの喜びが浮いていて。
「お待ちしていますね、英一さん!」
その笑顔に、思わずこちらも破顔する英一なのだった。