間(あわい) -first impression- ①
喫茶「NODATE」。
駅近くの商店街の一角。ログハウス風の外観のそこに、高遠英一はいつもどおりに足を踏み入れた。ころんころんと来客を告げるカウベルの音と共に第一声を放つ。
「こんにちは、克幸さ……」
入り口からまっすぐ向かった先、黒光りするカウンターの向こう側に、この店の主である野舘克幸の姿を想像していたのだが、後ろ手に戸を閉めて上げた目に、思わぬものが映りこんで驚いた。
「あ」
交錯した視線に戸惑いが洩れる。克幸が長く愛してやまないその場所に、今日は見慣れない――いや、初めて見る姿があったのだ。
「あ」
桜色に色づくその唇から、自分と同じ困惑が発せられる。白い頬にほんのりと朱を散らした小柄な女性は、円い大きな目を見開いてこちらをじっと見つめてきた。
「すみません。てっきり克幸さん……いえ、ご店主がいらっしゃるものだと」
慌ててとりなし失言を謝罪する。すると彼女がにこりと笑った。
「いえ。こちらこそ、お客様に失礼をいたしました」
いらっしゃいませ、と改めて迎え入れられてほっとし、カウンターのいつもの席に歩み寄る。春物のコートを脱ぎ、足元のかごに鞄と共に置いて着席したところで、彼女が冷やを手にやってきた。
「あの、ご店主は?」
「ちょうど今しがた、買い物に出てしまいまして」
お目当てのもの――克幸の淹れる珠玉のコーヒー――はしばしおあずけということか。仕方ない、と気持ちを切り替えてグラスを受け取り一口含んだ。
「帰りを待たせてもらっても?」
「もちろん。ごゆっくりどうぞ」
そうして軽く会釈を残して離れると、彼女はカウンターの内側に置かれた小さな椅子に腰掛けた。通好みがこぞって通うこの店にしては珍しく、自分以外の客は居ない。洗いざらしのガラスコップが載ったトレイを傍に引き寄せ、ふきんで丁寧に拭きはじめた。
その一連の所作、至極落ち着いた佇まいに、年はいくつなのだろう、アルバイトだろうかなどと珍しく勘ぐる。柔らかで幼なく見える面貌に、ふわふわとゆるく波打つ髪、身につけたエプロンに着られているようにも見える華奢な体躯。
「あの、何か?」
どこを取っても『可憐』という言葉がぴったりだなと思った瞬間に声を掛けられ、いやと慌てて頭を振る。にわかに身体に湧いた熱をごまかしつつ、折角時間が出来たのだからと、鞄の中から一編の小説を取り出した。
こちこちと店内に響く柱時計の音。それに混じるようにして時折立つ紙擦れと、グラスを擦る音。鼓動と息遣いに近いリズムを作るそれらに、自然に心身がほぐれていく。
入省のその日、自宅への帰りすがらにこの店を見つけ、店主の淹れる一杯に惚れ込み、以来続けて通ってきているが、今ほどの安息を感じたことはなかったように思う。
そう、まるで。
まるで休日に二人して、リビングで寛いでいるかのような。
無意識的に抱いたその感覚に、はっとしてページを繰る手を止めた。思わず顔を上げたところで、みたび彼女と視線がぶつかる。やわらかな笑みが向けられ、今度はこちらも同じく返す。随分と長い間そうしてきたかのような無言の共有。そんな錯覚すら覚えて、ひととき嬉しく幸せな気分になった。
カランカラン。
しかしそこに、突然荒々しい音が響いて驚く。同時に彼女の顔に強張りが浮いたのが見て取れ、一瞬にして店内の空気が変わったのがわかった。