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余には前世の記憶がある。
…などと、口に出して言ったことはないが、まあ、おおよそそういうことである。いや、そんないいもんじゃないけどな。何しろ、状況が積んでいる。物心ついた時には戴冠が済んでいて、実権を握られていた。信用のできる味方はいない。自分に特殊な能力があったりもしない。否、全くないわけじゃないが、この場合役に立つものかどうか…。
表面上、余はとても恵まれた、何不自由ない暮らしを送っている。何しろ、余は今代皇帝、天蓮帝様である。齢二歳にして亡き先帝の後を継いで皇帝となった、生まれながらの帝だ。勿論、二歳児に政を行えるわけがないので、摂政が立つことになった。先帝の母(つまり皇太后)である余の血縁上の祖母にあたる女と、その一族の若者(というにはもうとうが立ちすぎているが)のル・イールである。
数いる皇子の中で最も幼い余が帝位についた理由は、傀儡の王にする上で都合が良かったからに他ならない。先帝は長男たるリー皇子を次皇に選んでいたようだが、その詔は改竄され、リー皇子は自害させられ、余が皇位を継ぐこととなった。先帝の死ぬ数年前に、リー皇子は先帝の不興をかって国境に近い都市に飛ばされていたので、皇子の処遇を不審に思うものはなかったようだ。
ちなみに皇子と余は腹違いの兄弟ということになる。兄皇子の母は皇太后とは別の一族の女であり、今は既に失脚し郎党処刑されている。我が母は皇太后一族の女で、国一番の美妃と評判だった…らしい。一応殺されてはいないようだが、余は面識がない。正確には、戴冠前、乳飲み子の頃は共に過ごしていたはずだが、皇帝となってからは引き離され、母は節目に余の顔を見ることさえままならないでいる。大体ル・イールの策謀である。あの男は並外れた権勢欲の持ち主なのである。表面上は聖人君子のふりをしているが。
ル・イールは皇太后の信任も厚い宰相である。余に言わせれば、あれは稀代の詐欺師だが。あれの厄介なところは、人心掌握に長けていて、策謀の実行を明確に言葉にすることなく、己の部下や信奉者にさせるところである。それでいて、いざ欲しいものが差し出されると、表面上は恐縮してそれを断り、何度かそれを繰り返し、最終的に謹んでそれを受け取るのである。茶番にもほどがある。
ル・イールが何とかして余に禅譲させて己が帝位につこうとしていることを余は知っている。より正確には、禅譲を決めるのは余ではなく、皇太后となるだろうが。余が自他共に認める皇帝として自ら政を行う年になる前にそうするつもりなのだ、あれは。それが難しいとなれば余を謀殺して他の帝を立てることさえするだろう。故に、余はあれをどうにかするまではあれの思う通りの傀儡の幼帝のふりをしていなければならない。しかし、ずっとそうしていてはいずれ…。
余が思うまま、本当に自由に過ごせる場所はこの国にはない。ル・イールや他の家臣に付け入る隙を与えるわけにはいかないが、かといって王才を見せすぎれば謀殺される。あれは、余が優れた皇帝となっては困るのだ。己が政を握れなくなるから。あれは、余を暗君にして、民意や天意をもって他の聖君に禅譲させたいのである。
この国では、王朝の交代は天意により行われるとされている。ただの詭弁である。どの王朝も謀と争い、流血によって成っている。ただ、その歴史が隠され、後の王が偽りの記録と史書を残しているだけだ。この国の歴史に本物の聖君など存在しない。いつも謀臣に殺されている。余もこのままだとそうなる。否、己が聖君となれるなどと大仰なことを言うつもりはないが。
あれは。今は清貧の徒として過ごしているふりをしているが、皇帝となれば、悪辣放蕩の限りを尽くすだろう。憚りなく、己の本性を現すようになるだろう。それで割を食うのは当然民である。否、今も既に仁政とは言い難い圧政が敷かれているのだが。それは皇太后の名のもとに、そして余の名のもとに行われている。いずれ、民は皇帝の交代、失脚を望むようになるだろう。いや、今もう既に望んでいるものもいるだろう。時折、地方では反乱が起き、軍が駆り出されている。
それらの事情を、余は一切臣から知らされていない。居城の煌びやかな部屋で侍女に傅かれ、無為に過ごしているばかりである。世は平らかで、民は天蓮帝を仁王と讃えているのだと言われている。それが偽りであると識っていることを、余は臣の全てに隠している。
政の場に顔を出すことさえできない余が何故それを識っているのかといえば、余の持つ異能、千里眼に拠る。余は、千里眼によって居城に居ながらにして国の全てをつぶさに見ることができる。飢えて死ぬ子らを、悪吏に殺される若者を、盗賊に殺される翁を、この国のかしこに広がる地獄を、余はこの眼で見た。
それでも、何もしてやれない余が、聖君となれるわけがないのである。