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四段目

 約束の場所に淳斗よりも早くやってきたわたしは、近くにある朽ちかけたベンチへと腰をおろした。


 深呼吸をする。ゆっくりと、吸った数を数えながら。吐いた数を数えながら。今からする話を少しでも落ち着いてできるように。


 日当たりのあまり良くないここは、人通りも少なくて話をするには丁度いい。


 夏の真っ盛りを早めに迎えた七月中旬。更衣室の影程度では、蛇の様な湿気と暴力的な熱さを防ぎきれない。


 少し離れたグラウンドでは、下級生がサッカーをしている。制服のままで走り回るものだから、グラウンドの砂で黒いスラックスが白く煙っていた。


 汚れるのも気にせず楽しそうに走り回る彼らを見ていると何故だか落ち着いてきて、少しぼうっとしてしまう。


 体育館の方からは、女子バスケットボール部の練習の音が聞こえてくる。時々杏子の吠えるような声が混じっていて、一人じゃないような気がして心強かった。


「ごめん遅れた」


 体育館の音に耳を傾けていると、淳斗が姿を見せた。咥えている棒アイスは、来る途中で買ったのだろう。


 意味もなくニコニコしている彼は、それが当たり前かのように、私の隣に座る。彼の重みで木の軋む音がした。


「ヤバイなこの椅子。座ってたら折れそう」


「そうだね。壊したら怒られるかな」


「まあ、その時は見つかる前に逃げちまおうか」


 冗談交じりに笑う彼の顔に、嫌味な要素はひとつもない。むしろ好意であふれている。これは、彼女であるわたし目線だからそう見えるのだろうか。


 彼はしばらくわたしのことをじっと見た後、はっと気づいたかのように手を叩いた。


「すまん、紗英の分もアイス買えばよかったな。ごめん気が付かなくて」


「いやいや、そんなことないよ」


「だって、ずっとアイスの棒見つめてるし、欲しかったのかなって」


「そんなに子供じゃありません」


 そんなにじっと見つめていただろうか。恥ずかしくなるのを隠すために、少しきつく当たってしまった。それでも彼は、ニコニコと笑顔を見せてくれている。


 この笑顔を向けられるとわたしは、目を合わせたいのに合わせられないという不思議な衝動に駆られる。息が詰まって、じっと見ていたいのに恥ずかしくなってしまう。それでも笑顔がみたいから、横目でチラチラと見てしまう。


 その顔がわたしにだけ向けられているのだと思うと、花が開くときの音のように、小さな幸せがパッと鳴るのだ。花畑が広がり音の連鎖が広がるほど、わたしは幸せだと確信できた。


「それで、急に呼び出されたけど」


 食べ終えたアイスの棒を指で遊ばせながら、淳斗はわたしに質問してくる。


 そうだ、わたしは昨日の話を聞きに来たのだ。それに気づいたとたんに、砲丸投げの球がお腹に入ったかのように気が重たくなった。


 しかし、うじうじもしていられない。はっきりとさせよう。自分の意志が挫けてしまう前に、淳斗と話をつけないといけない。


「淳斗さ、昨日何してた?」


「昨日は、梅田に買い物行ってたよ。夏休みに海に行くから、水着を買いに」


 遠くのサッカーボールを目で追いながら、淳斗は何でもなく答えた。


 ほら、特になにも無いじゃないか。昨日は水着を買いに行っただけ。私は心の底からホッとした。


「そうなんだ、誰と?」


 グラウンドの方を見ながら何気なく問いかけた。シュートを空ぶった子がそのままの勢いで転んで、大きな砂煙が上がる。風の少ない今日はなかなか煙が消えてはいかず、その子は笑いの的になり、スラックスもカッターシャツも薄茶色くペイントされていた。


 そんな光景を見るともなしに見ながら待っていたけれど、なかなか淳斗から答えは帰ってこない。


 気になって横を見る。


 そこには淳斗じゃない誰かが座っていた。黒く得体のしれない、仮面をかぶったような顔色をしたわたしの知らない誰かだ。身体を虫が這うような悪寒に支配される前に、わたしは慌てて前へと向き直る。


 わたしの呼吸が少しずつ乱れていく。額には脂汗。口が干上がる代わりに、手のひらと足先が水に溺れていく。


 たった今まで、淳斗と話をしていたではないか。今横にいるのは誰だ。淳斗はどこへ行ってしまった。


 いろんな考えが、わたしの頭を駆け抜ける。固まったままでいるわけにもいかず、状況をもう一度確認するために、わたしは恐る恐るもう一度隣を確認した。


 そこにいたのは、確かに淳斗だった。しかし、わたしの知らない顔をした淳斗だった。


 こんな表情を、わたしは見たことがない。いつもの笑っている淳斗ではなく、感情をどこに置き忘れたのかと思うほど無表情だった。


 徐々に自分の指先が震えていく。怒られているわけでもないのに、不思議と見えない圧力に追い詰められているような気持になっていく。


「佐藤さんに聞いたのか」


 いつもよりも、ぐっと低い声。その音はとても男性的で、高圧的だ。喉を鎖で縛られたわたしは、重い頭を何とか動かして頷くことしかできない。


「そうか、昨日のあれは、やっぱり佐藤さんだったのか。あー、失敗したな」


 そういうと、背中をぐっと後ろに反らせて顔に手を当てた。古いベンチがミシリと嫌な悲鳴をあげる。


 花畑が、犯されていく音がした。


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