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二十一段目

 底なし沼に落ちるように、わたしはどんどん引き込まれていく。


「杏子、わたし怖い。惇斗だけじゃない、他の人も怖い」


 思わず、口から出てしまう。わたしをどんどん沈めていく恐怖も、沈められる自分も怖い。


「どうしよう、みんなあんな風だったら。仲良い人のなかに、どれだけ実はそうじゃない人がいるのかもわかんない」


 運動会で鳴らす空砲のような、大きな音を発する心臓。鼓動が強く、気持ちが悪い。


 もう嫌だ、早く死んでしまいたい。こんな弱音を吐かない無音の存在になりたい。


 昨日までの能天気で平和ボケしたわたしは、どこへ行ってしまったのだろう。


 無知は罪だと誰かに聞いた。それなら、わたしはずっと罪を犯して生きていたかった。知ってしまうとは、こんなにも残酷なことなのか。


 吐き気にも似た、酸っぱいものが胸からこみあげてくる。嗚咽ではない。笑いでもない。


 ナチュラルな負の感情が、呼吸と共に口から溢れた。それは、心臓の動きを加速させる。


「なに言ってんの。少なくとも、あたしは紗英に隠してる表情なんかない。あたしがそんなに器用じゃないのよく知ってるでしょう」


 うるさいリズムの隙間から、笑い混じりの声が聞こえてきた。この笑いは、嘲笑ではなく、わたしをリラックスさせようとするものだ。


「だいたい、紗英らしくないよ、ふられて挫けてるなんて。怒りながら愚痴ってるほうが似合ってる」


 過剰に心配することなく、あくまでも普段の通りのわたしを立ち上がらせる口調。「あたしにできること」を踏まえた、優しいわきまえ。一歩引いた大人の姿勢。


 わたしになくて、杏子にあるもの。あの小さな体からは想像のつかない母性。


 だから杏子は、後輩に慕われるのだろう。


「うん、そうだね。ありがとう」


 きがつけば、わたしのなかにあった酸っぱい感情は、少しだけ薄まっていた。


 薄まったところに足される甘味。今のわたしには、それはとても苦しい。


 杏子、ごめん。


「紗英なら、後ろから蹴りあげても不思議じゃないよね。その方が、紗英らしい」


「それは言い過ぎ」


 杏子の冗談に、苦笑いで返す。どこまでが冗談だろうか。


 大丈夫だよ。裏切ったあいつには、遺書っていう形で償ってもらうから。


 その後、少しだけ他愛のない話をした。この前までやっていたドラマや、つい先日不倫報道のあったミュージシャンの話。


 といっても、陽気に話している裕美に、わたしは小さく相槌を打つだけ。キャッチボールではなく、ストラックアウトのようだった。


「明日は終業式なんだし、ちゃんと来るんでしょう? 待ってるからね」


「うん、わかった。おやすみ」


 通話を切り、ため息にも満たない短い息を漏らす。吐き出された息は、まだ生きていることを教えてくれる。


 いったい後何回、こうして杏子と電話する機会があるのだろう。

 

 そういえば、秋介は正確なタイムリミットを教えてくれなかったな。まあ、いつでもいいのだけれど。


 部屋くらいは綺麗にしとかないと、お父さん面倒かもしれないな。


 などと考えながら、もそもそと布団に入る。


 つい先日新しく出した夏用の掛け布団は薄くて重みがなく、どこか頼りない感じがする。


 鼻から息を吸うと、わたしの匂いではなく、仕舞っていた押入れの匂いがして、わたしにより一層の心細さを与えた。


「最後に使う布団が、こんなにも他人行儀なのは嫌だな」


 一人つぶやくと、心の隅にいるコントロール出来ない部分のわたしが「布団に匂いがつくまでは生きていたい」なんて言っているような気がして、わたしは慌てて強く眼を閉じた。


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