あはれなるひと夏の
いずれの御時か、帝に女御更衣あまたさぶらいたまいける頃。平安の都に一人の男が住んでいた。
名を兼俊。皇居外郭の警備を司る左兵衛府に勤務する左兵衛佐である。
○
夏は夜。と、かの清少納言も『枕草子』にそう記している。夏の夜は漆を塗りこめたように暗く、そこに浮かぶ蛍であったり、空に広がる星々であったり、光るものがよく映える。
しかし、通常ではありえないようなものさえ光るのだという。近頃宮中で話題になっているのは「山明かり」という光のことだ。夜遅く、山の中腹がぼんやりと光り輝くのだという。始めは街の庶民たちの噂に過ぎなかった。ところが先日、式部大輔が「自分も見た」と言いだして一気に話が広がったのである。今は亡き先の大納言の三男であり、現在帝の寵愛を受けている雷の壺の更衣の甥である式部大輔は仏や神を非常に深く信仰している。この時代の貴族としても異常なほどに。そんな彼が言い出したことなので、みなはすっかり信じてしまったのだ。あの山にはきっと不思議な力があるに違いない、と。
兼俊もその話を聞いて多少の興味を抱いていた。仮にそれが神仏の光なのであれば、自分の目に焼き付けてご加護を受けたい。しかし、物の怪の類かもしれないと心のどこかで思っていた。鬼の行列が灯す松明だとしたら、見付けたところで食べられてしまうだろう。想像するだけで背筋がひんやりした。
「兄上様、今日はお帰りの際に手に入れてきてほしいものがあるのです」
朝、出勤しようとした兼俊に向かって妹はそう言った。なんでも、『源氏物語』の最新巻を買ってきてほしいのだという。邸から出ることの少ない小さな姫君である妹は、歌を詠むことと同じくらい書を読むことが好きだった。かわいい妹のためならば、兼俊は何だってできるような気がしていた。頼まれたものは必ず手に入れる。妹に近付く虫は追い払う。手紙なんぞ来ようものなら先に自分が読んで選別してやるのだ。遥か未来の世界では彼のような者をシスコンと呼ぶ。
「兼俊、ぼーっとしてどうしたんだ」
『源氏物語』を買って行って、喜ぶ妹の顔はどのようなものだろう。それを想像するだけで顔が奇妙に歪む。同僚は心配そうに声を掛けるが、分かっていて声を掛けているのだ。兼俊が妹のことを考えて不気味な顔になるのは日常茶飯事だからだ。
今日の仕事は昼間だけだったので、兼俊はすぐに帰って『源氏物語』を買うつもりだった。しかし、帝に入内している姉に会いに行くと同僚が言ったので、彼に付き添ったのだった。更衣様の姿を拝むことのできる滅多にない機会である。更衣が語ったのは「山明かり」についてであり、この話がいかに宮中に広がっているかがよく分かった。
兼俊と同僚が並んで歩いていると、向こうにいとあてなるおのこが二人立っていた。優雅に微笑んでいる方が式部大輔の兄である中納言で、ころころ表情の変わる実に楽しそうなほうが頭左大弁である。頭左大弁の父は中納言達の父と同胞なので、二人はいとこ同士だ。昼間だというのに周囲に光をまき散らしているような二人を見て、女房達が黄色い声をあげている。
「『山明かり』だって、御前も聞いただろ。なんてったって、宮中に話を持ち込んだのは義頼だもんな」
「彼奴はまた、かような意味不明なことを言いふらして……」
「弟の言うことくらい信じてやったらどうだよ」
「この世に神も仏もあるものか。死ねばそこで終わり。極楽なんてただの夢」
「またそうやって面白くないことばかり言う」
頭左大弁は中納言に不服そうな顔を向けているが、中納言はつんとした顔のままだ。
「業久、あまり外でそういうこと言わない方がいいぞ。世間一般と御前の意見は食い違っているんだから」
「……宣忠はどう思う?」
「え、私か」
「御前はどう思う」
「……物の怪はいたら楽しいと思う」
「それは同感だ」
「でも……。うん、死ねば分かるんじゃないか」
「そうだな」
神も仏も大好きな式部大輔と正反対な中納言は、この時代の通常の考えとは異なる意見を持っていた。それは彼に奇異の目が向けられる原因でもあり、同時に自分の意見を持っていて素敵、と女人を引き寄せる原因でもあるのだ。
「中納言様、またおかしなことを仰っている」
同僚のこの言葉は時代の代弁でもあるだろう。
頭左大弁と中納言は話の内容を世間話から仕事の話へ切り替え、外に面した廊下である簀子縁を進んでいく。
「兼俊、さっき左大弁様が仰っていたし、姉上も仰っていたけど、『山明かり』ってどう思う」
「ご加護があるならいいけど、私は物の怪の類かもしれないと思って背中がぞくぞくするよ」
「なるほどな。陰陽師に依頼する方もいらっしゃるようだけど、正体は分からないそうだ。御前の言う通り物の怪なのかもしれないな」
「陰陽師でも正体を暴けず倒すことができないなんて、そんなにおそろしい物の怪がいるとしたら怖くて眠れないな」
未の刻頃、兼俊は『源氏物語』を手に邸へ帰った。満面に笑みを浮かべた妹が装束を引き摺りながら駆けてきたので兼俊の顔もだらしなく歪む。が、妹は兄に感謝の意を伝えることもなくやや乱暴に『源氏物語』を奪い取り、自室へ駆け戻って行った。妹付きの女房が「すみません」と兼俊に対して頭を下げてから妹の後を追う。
以前『伊勢物語』を持ち帰った時も同じような感じだった。妹のこの行いはいつものことであり、それさえもかわいらしいと兼俊は思っていた。遠ざかっていく妹と女房の姿を見守って、兼俊は不気味に笑う。
自室へ向かった兼俊は、文机の上に置いたままになっていた『枕草子』を手に取った。今朝がたちらりと見て、そのままだったのだ。「春はあけぼの」と書かれている。そして、「夏は夜」。光るものなど蛍と星だけでよいのに、山まで光ることはないだろう。
「兼俊様」
兼俊の家の牛車を任されている牛飼童が庭から声を掛けてきた。手には折り畳まれた紙を持っている。
「お手紙です」
「誰から」
「それが、深く笠を被っていて顔はよく見えなかったんです。でも、兼敏様に必ず渡してくれと。ふふふ、あれは麗しい女性の従者かもしれませんよ」
「冗談はよせ」
兼俊には浮いた話があまりない。かつて女の一人や二人いたこともなくはないが、どれも中途半端に終わってしまった。会う前に手紙の交換が止まってしまうのだ。いっそのこと女の邸に乗り込めばいい、と同僚は言うが、兼俊としてはそこまで好いた相手でもないので手紙が途切れようが顔を見ることができなかろうが構わないのだ。
牛飼童から受け取った手紙を開いて、兼俊は目を丸くした。
『子の刻に鴨川で待っています。二条の近くにいますので、間違えないように』
真夜中に川まで来いとはどういうことか。これが恋文なのであれば、相当特殊な感性の女性が相手なのだろう。
「そういえば、最近邸の前に鼠の死体が放られているんです。つかぬことをお聞きしますが、何か人の恨みをかっているとか、ないですよね」
「ただのいたずらだろう。そんな冗談を言っている暇があったら牛の世話でもしていろ」
「すみません」
ぺこりと頭を下げて牛飼童が下がる。
兼俊は手紙に目を下ろす。怪しいことこの上ないが、手紙を無視するのはよくない。仕方がないか、と兼俊はひとりごちた。
静まり返った真夜中。そんな水無月の夜。
建物を繋ぐ渡殿を歩く影が一つ。兼俊である。成人男性と雖も、貴族が一人で出歩くのは避けた方がいい。従者を連れて行こうとした兼俊だったが、手紙の裏に大きく『一人で来い』と書いてあったので、こうして一人で歩いているのである。東門から外に出て、鴨川を目指す。
月明かり差し込む道はかろうじて明るいが、木陰は完全に闇となる。あの闇に鬼が潜んでいるのではないだろうか、そうして、人間を襲うのだ。陰陽師に方角の吉凶を占ってもらえばよかったと兼俊は思った。この時代、貴族は出かける際に方角の吉凶を重視した。北東へ向かいたい時に北東が凶ならば、わざわざ北へ行ってから東へ方向転換して進むのである。今から行こうとしている方角が凶という可能性もある。『伊勢物語』さながらに鬼が現れ、女諸共自分も食べられてしまうのだ。そこまで想像して兼俊は首を横に振った。怖いことを考えるのはよそうと思ったのか、顔がだらしなくなる。妹のことを考えているらしい。
そうこうしているうちに、鴨川の淵に辿り着いた。
「兼俊様ですね。お待ちしておりましたよ」
川辺に女が立っている。月光に白い顔が浮かぶ女房だ。「一体何の御用でしょうか」と言おうとした兼俊の腕を掴み、女房が走り出す。脱げそうになった烏帽子を押さえながら、兼俊は引っ張られていく。それは女性の力とは思えないほど強く、一緒に走らなければ腕の一本簡単に持って行かれそうだ。女の方が鬼であったかと兼俊は思ったが、逃げることはできないようだ。そのまま森に入り、山を登り始める。「山明かり」の目撃が相次ぐ、件の山である。
木々の間を縫って進み、やがて開けた場所に出る。そこに広がる光景を見て兼俊は己の目を疑った。これは夢か現か、どちらだろうか。頬をつねって、涙目になる。
広場のようになった場所で数多の狐や狸が踊り狂っていた。後ろ足で立ち上がり、前足を打ち鳴らす者。きゅわーん、きゅーんと鳴き声をあげる者。腹を太鼓のように叩いている者。器用に飛び跳ねる者。中には猫や鼬も混じっているようである。
「今宵は最終夜。ぜひ兼俊様にもご覧いただきたいと思いまして」
「これは、これは何なんだ」
女房はからからと笑い声を漏らした。細い目がさらに細められ、耳が尖る。恐れおののく兼俊の前で女房はくるりともんどりうって、一匹の狐となって着地した。狐は兼俊を見上げる。
「これは『夏の夜踊り』。洛中洛外の獣が集まって五日間交代で踊るんです。昨日は熊と狼が踊っていましたし、さらにその前の日は鳥達と兎でした。最終夜の今日は狐と狸。さあ、兼俊様も踊りましょう」
「待て、待て、なぜ私が獣達の踊りに参加することになる。どうしてこんなところへ連れてきた」
兼俊のきつい口調に、狐は耳をしょんぼりと下向きにする。
「うう、突然すみません。けれど、初日からずっとお誘いしていたではないですか。お邸に贈り物をお届けしましたよ」
「何だって。じゃあ、あれか。あの鼠の死体は君達が持って来たんだな」
「そうです」
「どうして私なんだ。人間を誘うにしても、もっと動物が好きなやつとか、物の怪が好きなやつとかにすればいいだろう」
「これは、御恩を返そうとした次第にございます」
恩返し? と兼俊は首を傾げる。狐は恭しく頷く。踊りの輪から何匹か狸が外れて、兼俊の前に並んだ。一番大きな狸が一番小さな狸を指し示す。
「これはうちの末っ子です。先日、兼俊様が命を救ってくださいました。ほら、お礼を言いなさい」
「ありがとーごじゃいましゅ」
「父親として、なんと感謝してよいのやら。本当にありがとうございました」
考え込む兼俊の眉間に皺が寄った。思い出されたのは十日ほど前の事。寺に立ち寄った帰り道で、木の洞に挟まってもがいている何かを見付けたのだ。従者と共に引っ張り出したところ、それは小さな子狸だったのだ。礼をして去って行った姿がかわいらしかったなあと従者と笑い合ったのを覚えている。兼俊はぽんと手を打った。
「あの時の狸か」
「へえ、そうです。お礼に、私達の踊りをご覧頂こうと思ったのです」
狸の家族が深々と頭を下げた。狐も満足そうに頷いている。そして、飛び上がって再び女房の姿になった。それがまるで合図だったかのように、狐と狸が次々と人の姿へ化けていった。束帯姿に狩衣姿、女房装束、庶民の姿。様々な姿で人々は踊り狂う。猫と鼬も何匹かが人に化けて輪に入る。
「『山明かり』とは、この踊りを照らす篝火だったのか」
「そんな名前で噂されてるみたいですね。夏は毎年やっていますよ。人々が気付かぬだけです」
気が付かれてしまうほどに明るい光が揺れるのは、仲間を救った彼の者への感謝があったからだろうか。漆を塗りこめたような夏の夜に笑い声が木霊する。
「さあ、兼俊様も」
女房に手を引かれ、兼俊も輪に入った。見よう見まねで踊っていると、輪の外にいた川獺から「なかなかいいよ」と声が掛けられた。狂ったように皆と踊っていると、だんだん楽しくなってくる。我を忘れて、兼俊は動物達と踊り続けた。
明け方、息子がいなくなったと兼俊の邸は大騒ぎになった。女の家にこっそり行ってそのまま朝になってしまったのでは、と笑っていた父が、従者も牛飼童もいるのを見て青褪めた。一人で出かけ、帰ってきていないのだ。母は涙を零し、妹は『源氏物語』を抱きしめる。大捜索が行われようかとしたところ、式部大輔が兼俊を牛車に乗せて邸を訪れた。大輔曰く、昨夜は寺に泊まっていて、今朝帰り道で兼俊を見付けたのだという。土に汚れ、草や葉を布団のように掛けて眠っていて、近くに木の実が大量に置かれていたという。声を掛けると目を覚まし、「踊りは終わったのか」と呟きながら笑ったそうだ。
兼俊がおかしな状態で発見されてから、「山明かり」は見えなくなった。夜の都に光るのは蛍と星だけになったのだ。神仏が一時的に力を見せていたのだと人々は語るが、その真実を知るのは兼俊だけ。けれど、それも夢か現か……。
面白い話が読みたいという妹の頼みを聞いて、左兵衛佐兼俊は筆をとる。彼が紡いだのは、ある夜、ある男に起こった不思議な出来事。事実と創作を織り交ぜて綴られた物語は、たくさんの動物と男が楽しく踊る所で終わる。喜ぶ妹を見て、兼俊も幸せそうに笑った。
遥か未来の世界まで、名のある書は読み継がれることになる。ある男が大切な妹のためだけに記した小さな物語が歴史に残ることはない。これは、長い歴史に差したひと夏の「山明かり」に過ぎないのだから。