第8話 見果てぬ夢
第8話 見果てぬ夢
ぺさんは握った私の手を、自分の胸に当てて目を閉じた。
膨らんだ乳房の柔らかな感触が、黒の毛糸を編んだ着物越しでも伝わってくる。
「…私はその時を待っても良いのか?」
私は返事に困った。
正直禁を犯す事には躊躇している、でもぺさんを思う気持ちは…。
「私の中の義と折り合いがまだつけられませぬ…でもいつかは」
「謙信よ、お前が僧侶であった事も、毘沙門天に生涯不犯を誓った事も承知している。
それがお前の義である事も…でも義は状況によっていくらでも変わる。
お前の世の義がこの世での悪、お前の世の悪がこの世の義となる事もある」
生涯妻は娶らぬ、女には触れぬ、そう誓ったはずだった。
それが今はぺさんという妻が現れ、こうして彼女の胸に触れている。
少しでも彼女のそばにいたい、彼女に触れていたい、そう願っている。
「ぺさん、これ以上はどうかお許しを…謙信は苦しゅうござりまする」
私はぺさんの手から自分の手を抜き取ると、二階の部屋へと駆け込んだ。
胸がどきどきしている…苦しい。
着替えを持って、風呂に入る。
身体を洗うついでに、脚の間に手を入れて軽くしごいてみる。
…この世の神がかった医療のおかげで、多少は回復したとは思うが、
それでも用を成せるほどではない。
無様だ…前の世では敵陣単騎突入も厭わず、果敢に戦い、
多くの勝利をあげ、軍神と称されたほどだったのが嘘のようだ。
たったひとりの女を前に怖じ気づいて、びくびくと怯えている小男がいるだけだ。
夜、寝ようと二階にあがると、ぺさんは部屋の机に向かっていた。
「仕事のお文にござりまするか?」
「いや…これは個人的なものだ」
ぺさんは手を止め、私の方を振り向いた。
「私は物語を読むのも好きだが、自分で書くのも好きなのだよ」
「本当? どんな話を書いていらっしゃるの?」
「まあ何て事のない恋物語なのだが…そうだ、ちょうど今詰まっているところだ。
謙信よ、お前ならここをどう書く?」
「ぺさん、それはどのような場面にござりまするか?」
私はぺさんの隣に座った。
「主人公の男が相手の女を思ってだな…」
ぺさんは私の耳に口をつけるようにして、その続きを囁いた。
私はそれを聞いて、耳の先まで真っ赤になってしまった。
「ちょっ…! もう、ぺさんの意地悪!」
「いや、だってさ、こういうのは男に聞くのが一番だし」
「えっ、そんな…恥ずかしい事を」
「謙信は何を思う? 私を思ってするの?」
いたずらのような、笑みを含んだぺさんの目が私の目をじっと覗き込む。
困る、またどきどきして胸が苦しくなるではないか…。
ぺさんはまた机に向かって新しい紙に何かを書くと、それを私によこした。
「春知らぬ山にも色の秘めたるを 思ひ見上げる一本の杉」、それは恋歌だった。
「…謙信もそういう気持ちになった事ぐらいはあるか?」
「驚いた…ぺさんは歌までたしなまれるとは」
この世の者は歌など知らぬとばかり思っていたが…。
妻とはなんと艶っぽい生き物である事よ。
私も筆を取り、彼女の歌の隣に歌を書き添えた。
「雪解けに鳥の訪ぬる時は今 山杉も歌ふ温き春来し」。
「今…そうしたい気持ちはござりまする」
「してもいいのに…」
「あの、その…恥ずかしながら前の世での飲酒が祟って、そのう…」
ぺさんはふっと笑った。
そして目を閉じ、唇で私の唇に触れた。
「…私が謙信をもっとそんな気持ちにしたげる。
したくて、したくて、たまらなくて、いつか私を襲うぐらいの気持ちにしたげる」
「ぺさん…!」
襲うなど、こんな可愛い人を…。
私は隣に座るぺさんの背中に触れ、それから抱き寄せた。
初めて抱きしめる女の身体は温かく、その柔らかさに驚かされた。
出来もしないくせに、胸だけはどきどきするのが憎らしい。
「…謙信は『源氏物語』の中でどの女性が一番お好みか」
「ぺさんは?」
「私は末摘花だな…美しくはないが誠実さがある」
寝る前、ふとんの中でいつものようにおしゃべりをする。
「そうですね、私は源氏にとって、母のような姉のような藤壷…。
いえ、上杉の姥姫…ぺさんが一番にござりまする。
ぺさんこそ、『源氏物語』の男君の中で誰が一番お好みにござりまするか」
「…本当は『上杉謙信』と言いたい。
まあ明石の入道かひげ黒だろうな、お前に似ているから…」
ぺさんはふふと笑った。
でも次には真面目な顔で私を見つめた。
「なあ、謙信よ…謙信はどうして『源氏物語』が好きなのだ?
知っての通り『源氏物語』は色恋の物語、お前は前の世で生涯不犯を誓いながらも、
その実、誰よりも愛や恋を思ったのではないか…?」
「う…」
そうかも知れない。
前の世では何度か恋はしても、叶うことはとうとうなかった。
戦勝のために不犯を誓っても、男の身は正直なもんで、若い頃はずいぶん悩みもした。
「ここは別の世、物語の中ではなく現実…そして私たちは男と女。
決して見果てぬ夢ではない、手を伸ばせば実現も出来る。
結婚はしたが、とりあえず私と恋でもしてみないか」
ぺさんと恋を…?
そうか、私はもう恋をしても良いのだね…。
「恋は…もうしておりまする」
私はふとんの中でぺさんを抱きしめ、彼女がしてくれたのと同じように、
唇で唇に触れ、それから耳に触れ、首筋に触れと、彼女の肌に唇を走らせた。
身体とは裏腹に、心はぺさんでいっぱいだった。
あなたが欲しい、あなたが私の全てだと。
翌朝、朝食の後に庭の掃除をしていると、ぺさんが会社に行くよと言った。
私は「スーツ」なる黒い上下揃いの服を着せられ、安田殿の運転する車にぺさんと乗り、
「会社」なる城へと向かった。
「謙信、会社とは営利団体…商店のようなものだ。
さ、もう着くぞ、武田さんはもう来てるかな…」




