第7話 三国一の幸せ者
第7話 三国一の幸せ者
「あ…これは失礼を、つい」
私は慌ててぺさんの手から、自分の手を離した。
「…良い、構わぬ」
「では失礼を…」
私はどきどきしながら、もう一度ぺさんの手を取った。
自分の手の内で彼女の手を動かし、手習いを続ける。
「ここで力を一度抜きまする、そして…」
すると、ぺさんが手を止めて不意に言った。
「…謙信、お前の手は大きいな」
「えっ…」
「上杉の子は養女の私しかいない、父の亡き後私が一時的に組を継いだものの、
女の身では限りがある、男たちに侮られぬよういくら努力しても。
私は女、それを今お前の手が教えてくれた気がする」
「ぺさん…」
ぺさんはうつむき、頬を少し染めてもう片方の手を私の手に重ねた。
「謙信が私にようやく触れてくれた…それだけで私はとても嬉しいよ」
「こんな事で…?」
「男のお前にはわからぬだろうが、触れてもらう事は女にとって大事な事だ。
身体を結ぶ事などよりずっと」
…可愛らしい事を言う。
ぺさんは母や姉のような大人の立派な女だが、まるで乙女子のようなところもある。
「ぺさん、私はあなたに触れても良いのですね…」
「抱いてくれとまでは言わない、触れてくれるだけで私は幸せだから」
私は空いた手で彼女の頬を撫で、それから肩に手を回した。
私も幸せだよ、でもそれはぺさんが幸せだから。
私の毎日にぺさんがいてくれる。
彼女と一緒に過ごす時間は楽しく安らかだ。
朝、目が覚めると隣に彼女の寝顔がある。
それだけで私は三国一の幸せ者だと思う。
ぺさんがいてくれる、だから私も断酒を続けられる。
この世に来て以来、私は一滴の酒も口にしていない。
「よう謙信じゃねえか」
「島津殿…!」
そんな折、断酒のための別の集まりに誘われて行った先で、島津殿と再会した。
相変わらず、でかい身体をした中年男だった。
「島津殿、あの病院からどうやって…?」
「ヤクザやってる友達が俺を出してくれたのさ」
「へえ…」
「謙信こそ、上杉会のお嬢に引き取られたって噂だったぞ…。
上杉会はあの病院の上部組織だし、井上会の直参でもある。
すげえとこに見初められたって、お前が退院した後皆言ってたぞ」
ぺさんはその世界では相当の身分なのか…。
よくこんな小男など選んだものだ。
「上杉会は規模はそれほどでもないが、精鋭揃いの武闘派だ。
ヤクザの中でも憧れているやつは多い。そのうえお嬢も美人だ。
謙信、お前ほんとについてるよな…で、嫁さんとはどうなんだ?」
「ぺさんは…彼女は私の幸せの全てにござりまする」
島津殿は「言うね」と、片目をぱちとつぶって私に目配せした。
「ただ…島津殿、恥ずかしながら私がだめなのでござりまする。
あの、そのう…夜が」
「ああ…立たないのか。わかるよ、俺も全然立たないから」
「それもございまするが、私は毘沙門天に生涯不犯を誓った身にござりまする。
気持ちはあっても、後ろめたさの方が勝ってしまいまする…」
ずっとそうして生きて来たのだから。
はからずとも妻を持った事だけでも後ろめたいのに、これ以上の禁を犯すなど…。
「毘沙門天て…まるで上杉謙信みたいな事を言う」
島津殿は声を立てて笑った。
「私は上杉謙信にござりまする、島津殿こそ」
「あ、俺ね…元々『島津』なんだよ、『島津智和』。だからあの病院で『島津義弘』。
謙信は? 元は何ていう名前だったんだ?」
島津殿はそう言って、私に連絡先を書いた紙をくれた。
「『不識庵謙信』…出家前は上杉輝虎と名乗っておりました。
でも今はぺさんの家の、上杉家の謙信、『上杉謙信』なのでござりまする」
それから会合が始まり、私と島津殿はそれぞれ名乗った。
…「アル中の上杉謙信」、「アル中の島津義弘」と。
あの病院の出身者が、私と島津殿の他にもいたらしく、
「上杉謙信」と「島津義弘」でも笑いは起こらず、安心した。
安田殿の送迎で家に戻ると、ぺさんが座敷で男物の着物を広げていた。
黒の紋付で、袴も羽織りもある。
「あ、謙信ちょうどいいところに。この着物、お前にどうかと思って」
「ぺさん、これはどういう品で?」
「父の着物だ、丈などはあの法衣を参考に直してある」
「お父上の…?」
ぺさんは私に着物を着せてくれた。
「謙信…明日会社にお前を連れて行く、まだ上杉の組員とは顔を合わせていない。
ちょうど明日は武田さんも出て来るから、皆にお前を紹介したい」
「武田さん…?」
「上杉会二代目の会長だ、初代と一緒にこの上杉会を始めた人なのだよ。
もうだいぶじいさんなのだが、相談役をしてもらっている」
武田といえば信玄殿…今はどうしておられるのだろう。
「良かった、ぴったりだ。この着物はとりあえずは結婚式なのだが、
いずれはお前を正式に上杉会の人間にしたい、その固めの儀式にも」
「結婚式…祝言のようなものにござりまするか?」
「祝言だ。実はこの結婚は武田さんがうるさくて、嫌々決めたのがきっかけだったのだよ。
お前を含む候補者も武田さんが探して来たのさ」
ぺさんは私の着物を脱がせると、それを畳み始めた。
「でもまさかこんなに幸せになるとはな…謙信と出会って、謙信を思って。
武田さんに感謝しないとな、それが結婚式だ」
妻とはなんと慕わしい生き物である事よ…。
私はそんなぺさんの背中に頬を寄せた。
「…それは私こそにござりまする、ぺさんと出会えたからこそ。
私もぺさんを思っておりまする」
「これは…期待しても良いのかな」
「何をにござりまするか」
ぺさんは私の手を取って、前に回した。
「謙信は…いつか私を抱くか?」




