第6話 手習い
第6話 手習い
病院のあと、近くの薬局なる家で薬を受け取ると、
ぺさんは運転手の安田殿に頼み、「デパート」なるところに寄ってもらうよう言った。
そこは市が立体になったようなところで、ぺさんは私のものをあれこれ物色した。
着物や肌着、寝間着、財布や帽子などの小物類、履物…。
「ぺさんは見立てが上手いのですね、どれも洒落ている」
「いや、単に飽きが来ないという基準だけだ。気に入らぬか?」
「いいえ…嬉しゅうござりまする、私などの趣味ではとても…」
私の趣味などではこの世の男にはふさわしくない。
赤や桃色、花柄の衣では悪目立ちするばかりだ。
…「上杉謙信」という名のように。
ぺさんは服屋の棚から、薄い桃色のシャツなる上衣を取って私に見せてくれた。
「『上杉謙信』というからには、こういう色も嫌いではなかろう」
「しかしながらぺさん、このような色はおなごの色ではござらぬか?」
「この世の男は赤や桃色も上手く着こなしている、少しもおかしくはない」
「ぺさん…!」
「上杉謙信」は、ぺさんの部屋の本棚の本にも載っているほどだ。
きっと他の文献にもさまざまな事が載っているはず。
もちろん私の恥ずかしい趣味まで…。
ぺさんはそれらを読んで、私の趣味を勉強したのだ。
…妻とはなんと健気な生き物である事よ。
ぺさんが飲み物を買いに行っている間、私は座って通り行く女たちを眺める。
成人の女は皆化粧をし、あちこちを飾り立てている。
しかしぺさんは他の者とは明らかに違う。
彼女は化粧もしないし、何の飾りもない。
服装もどちらかと言えば男っぽい。
それでも私の許へと戻って来るぺさんは、人の目を引くのに十分だった。
私も彼女だけはすぐに見つけられる。
背も高く、手足が長く、まるで最初にいた病院で見た雑誌なる書にあるようだ。
戦国の女にもここまでの者はないだろう。
この人の隣に眠れるのは私だけ…そう思うとなんだか鼻が高い。
夕方頃に家に戻ると、少し休憩してからぺさんは夕食の支度を始めた。
私は庭に降りて玉砂利の間に覗く草を引き、竹ぼうきを持ち出し、
掃き清められる場所は全て掃き清めた。
ぺさんが支度の合間に水の入ったたらいを持って来て、打ち水をしてくれた。
夕食は天ぷらなる野菜と魚の揚げ物だった。
食後はやはり果物をつまみながら、縁側で月を眺め、おしゃべりを楽しんだ。
そして二階の部屋に、二人でふとんを敷いて横になる。
「…虫の音が聞こえまする、もう秋ですね」
暗がりの中、私は隣に眠るぺさんに話しかけた。
「秋はつらいものだが…今年の秋は違うな、謙信」
「はい、まことに…。ところでぺさんは春と秋、どちらがお好みですか?」
「私は中宮ではないから、夏と言っておこう」
なんと…! この世の人とこのような、雅なやりとりが出来ようとは。
「中宮とは…秋好中宮にござりまするね、ぺさんは『源氏物語』を読まれるのですか?」
「『源氏物語』は好きだぞ…お前も好きか?」
「はい…! もう大好きで大好きで、何度も読み返しました…!」
「私は柏木と女三の宮のくだりが特に好きなのだが…恋のもの狂おしさだ」
「わかりまする、あそこは私も泣きながら読みましたもの」
仰向けに寝ていた私たちは、いつの間にか向かい合っていた。
「愛した人は愛など知らぬ人、私も泣いたぞ…!」
「ああ、ぺさんでも…?」
「柏木が亡くなって三の宮が涙を流すところで、もう大号泣だ」
「私は夕霧と雲居の雁がようやく結ばれたところでも、涙が止まりませぬ」
私たちは翌日の予定も忘れ、どちらかが話し疲れて寝付くまで、
「源氏物語」について熱く語り合った。
ぺさんも相当に深く読み込んでいる、話題は尽きなかった。
それから午前中に庭の手入れをし、病院へ行き、
午後は酒の問題を抱える仲間との集まりに通う毎日が始まった。
ぺさんとの暮らしは楽しい事この上なかった。
特に夜が楽しく、夕方も近づくともう夜が楽しみで楽しみでならなかった。
夜になればぺさんと大好きな「源氏物語」を語れる。
何よりぺさんの隣に眠れる…。
「…謙信よ」
そんなある夕食後、ぺさんが二階から小さな書をたくさん持って降りて来た。
「お前『源氏物語』が好きなら、こういうのも好きだろうか」
それは病院でも見た漫画なる絵物語の書だったが、趣きがだいぶ違っていた。
「これは…? 女人向けの絵物語にござりまするか?」
「私がまだ若い頃に読んだものだ、二階の押し入れにずっとしまってあったのだよ。
通院の時に待ち時間が退屈だろうから、少しずつ読んでみたらいい」
「ぺさん、ありがたき幸せ…!」
ぺさんのくれた書物を通院の待ち時間に読んでみると、
そこには少女たちのさまざまな形の恋が描かれてあった。
つい夢中になって順番が来た事も忘れてしまい、看護士に「上杉謙信さん」を連呼され、
他の患者の笑い者になってしまうほどだった。
ぺさんは自分が付き添えない時は、安田殿に私の送迎を頼んでいた。
病院の後で断酒のための集まりに行き、安田殿の運転する車で帰ると、
ぺさんが二階の部屋で、机に向かって何やらうんうんと悩んでいた。
「ぺさん…ただいま戻りました。あの、いかがされたのですか?」
「あ、お帰り謙信。実はだな、付き合いのある組に近々祝いをやらねばならぬ。
それに添える書状のために、字を練習していたのだが…。
どうにも他の親分たちのように、上手くは書けなくてな」
そう言うぺさんの手許には、筆と硯、それから書き損じがたくさんあった。
ぺさんの文字を初めて見るが、そんなにまずくはない。
筆の入りと抜きも出来ている、止めやはねもきれいだ。
これならば練習すればきっと…。
「ぺさん、私と一緒に練習いたしましょう」
私はぺさんの隣に座り、筆をとった。
「お手本が要りまする、何と書いたら良いのですか…」
「これだ」
ぺさんが書き損じを差し出し、私がそれを見ながらお手本を作る。
出来上がったお手本を見ながら、ぺさんが新しい紙に手習いを始める。
でもやっぱり気に入らず、紙を丸めて新しい紙を用意する…。
それを見かねて、私はぺさんの後ろに回った。
そして筆を持つ彼女の手に、自分の手をそっと添えて動かした。
「謙信…?」
ぺさんは驚いて私を振り返った。




