最終話 上杉謙信と名付けられた男
最終話 上杉謙信と名付けられた男
「そんな…」
「私はここへ帰って来るために、会社に損害を与え、人を二人殺した。
捕まれば死刑はまず間違いない。
それでもいい、たとえほんのつかの間だけでも、謙信と一緒にいたかった」
ぺさんは私の膝の上で踊りながら、唇を求めた。
妻とはなんと激しく、扇情的な生き物である事よ…。
これが愛さずにいられるか、こんな愛おしい女をどうして手放す事が出来る。
「…ぺさん、そなたは私のもの、私だけのものだ。
あの時別れを選んだのは、愛してる、それ以外になかったから…。
でももう手放しはしない、そなたをどこへもやらぬ。
ずっと一緒…それがそなたの幸せ、違うかぺさん」
「私の幸せはずっと謙信、謙信だけだ…」
警察はこの家の周囲を囲んでいる事だろう。
突入の瞬間を、今か今かと探っている事だろう。
それなのに私たちはこんな事に耽っている。
身体をつなげたまま、私は最愛の女の求めに応えた。
彼女の頬を撫でると唇を唇で塞ぎ、舌でそれを割って中に押し入った。
指が動く、手が動く。
空いた片手ですぐそばにある机の引き出しを探る。
私は新井直政という、不思議な武将の事を思い出していた。
彼がどうやってこの世に戻ったか…その鍵がこの引き出しにしまわれてある。
覆っていた袱紗をほどき、セーフティを解除する。
そして引き金に指をかけて、手の代わりにぺさんの耳の上に添えた。
硬く冷たい感触に気付いたぺさんは、一瞬目を丸くした。
…でも、次の瞬間には嬉しそうに笑った。
私は引き金を引いた。
こんな時でも心は凪いで静かだ、きっとこれがリチウムの効果なのだろう。
弾はまだある、醒めて静かなまま私は自分の側頭部を素直に撃った。
この世は確かに極楽浄土だった。
何もかもが便利で快適、食べ物も珍しくてこの上なく美味だ。
あれほど好きだった酒を忘れてしまうくらいに。
でもこの世だけが浄土ではない、ぺさんが、この世がそれを教えてくれた。
極楽浄土とは自分の心が作り出すもの…たとえそれが地獄の真ん中にあっても。
目が覚めると、そこはどこか山中だった。
明るい…たぶん昼間なのだろう。
身体を起こして辺りを見回す。
ぺさんが裸のまま、私の傍らに眠っていた。
彼女以外にも、部屋にあった琵琶や刀もある。
乱れた着衣を直して、着ていた上衣を彼女にかけてやり、そっと髪を撫でる。
すると、彼女は目をむくりと動かしてまぶたを開いた。
「ぺさん…!」
「…謙信?」
…やっぱり。
思った通りだ、あれが鍵だったのだ。
死が私とぺさんを別の世へ連れて行ったのだ。
「ぺさん、私たちは別の世へ来たらしい」
「本当か?」
ぺさんも起き出して、着物の襟を合わせた。
「私もあの世で死んでぺさんの世へやって来た。
吉富殿も戦国へ行って、そこで一生を終えて戻って来た」
「なるほど…しかし、ここはどういう世なのだろう」
私たちはこの世の事を知るべく、山を下りた。
中腹から麓を見下ろすと、遠くの方に人の作る集落らしき場所が見えた。
それは集落ではなく、どこかの軍の本陣だった。
「本陣…ここは戦国らしいな」
「戦国!」
戦場があるなら早い、馬を盗み出して走り出す。
途中の民家から衣類や食料を盗みながら、遠くへ遠くへと。
同じ戦国でも、ここは私のいた戦国とは少し時代が違う。
たぶん私より少し後の時代、直政殿の時代なのだろう。
「ぺさん、これからどこへ行く?」
越後も景勝の代になっているはずだ。
厠で死んだ男が今さら越後へなど帰れない。
「そうだな…どこか泉のあるところがいいな、リチウムを多く含む泉だ。
となると西だな、リチウム鉱泉は西国に点在している。謙信にリチウムが必要だ」
「…了解、しっかりつかまっていて」
私は馬を飛ばした。
私の腕の中でぺさんが笑う。
「ここは戦国、私は謙信の妻…そうすると私の呼び名は『ぺ殿』になってしまうのか?」
「高貴で良いではないか、私など『上杉不識庵謙信』だ」
「戦国の英雄と同姓同名か、さしずめ大問題になるな」
「いいさ、ただの同姓同名なのだから…!」
私は上杉謙信と名付けられた男。
あの謙信に妻はいない。
だから私は同姓同名の男、それでいい。
私も笑って、馬をより加速させた。
西へ、西へと。
「上杉謙信と名付けられた男」 完




