第57話 上杉謙信の妻
第57話 上杉謙信の妻
ぺさんからの返信を待っていたら、いつの間にか眠り込んでしまったらしい。
気が付くと、もうとっくに陽が昇ったあとだった。
グレイアムと政宗はまだ帰って来ていなかった。
私はチャットを開いた、返信が来ていた。
“その必要はない”
ただそれだけだった。
私はもう一度迎えに行く、待っていて欲しいと返信した。
そして昨日の仮装のまま、着替えもせずに家を飛び出した。
タクシーを捕まえて、武本の自宅の住所を言った。
しかしその住所は別人のものになっていた。
武本の会社だったビルにも寄ってもらったが、受付は取り合ってももらえなかった。
私はぺさんの行きそうなところなど、ひとつも知らなかった。
上杉にいた頃も彼女は、会社と自宅、近所のスーパーを往復しているだけだった。
私とでなければ、デパートへも行かないような女だった。
彼女の楽しみは何だったのだろう。
…仕方なく、上杉の家へと車を戻してもらうことにした。
途中グレイアムから、政宗とそのまま「ホストクラブ上杉」へ行く、
店で客ともめ事があった、夜にはどっちかが夕飯の支度に戻る、そうLINEが流れて来た。
支払いを済ませて、家に戻ると陽が傾き始めていた。
庭が一番美しくなる時間だった。
庭に回って、落ち葉を拾い、池の錦鯉に餌を与えて家に入る。
玄関は鍵もかけ忘れたらしい、三和土には脱ぎ散らかした履物が散乱していた。
二階に上がり、着替えようと部屋の襖を引く。
すると、部屋に人の背中があった。
私の机の引き出しが開いている、空き巣か。
空き巣は私の帰宅に気付いて言った。
「…この指輪は誰に贈ろうとしている? そういう女がいるのか? 答えろ謙信」
「あ…」
空き巣はぺさんだった。
全体的に黒っぽく、汚れていたので空き巣かと思った…。
「ぺさん…!」
「言っただろ、迎えに行く必要はないと…帰って来たよ謙信、ただいま」
ぺさんはきまり悪そうに笑い、でも次にはむうと膨れて子供のようにすねた。
その汚れた手には、台湾で買ったあの指輪があった。
「で、この指輪は何だ? 私の他にそういう女がいるのか?」
「この指輪は…」
私は彼女の手から指輪を取り上げ、左手の薬指にはめてやった。
彼女の指は少し太くなった、苦労したのだな…。
「…この指輪はぺさん、そなたとの結婚指輪だった。
どうしても欲しくて欲しくて、小遣いをはたいて台湾でこっそり買った。
でも買ったら別れが来てしまった、別れた後も処分などできなかった…」
「私は必ず帰ると言った」
新しい指輪が濡れて、射し込む夕陽に光った。
「謙信のところへ…どんな事をしてでも」
私は涙をぼろぼろとこぼすぺさんを抱き寄せた。
ぺさん、私の妻はあなたしかいない、あなたしか考えられない。
「ぺさん、私ともう一度結婚してくれるか、私の妻になってくれないか…」
彼女を私だけのものにしたい、他の男など許さぬ。
それが男の本能だったし、私もただの男だった。
本能は血液になって走り、集まり、欲望という形をなす。
今日は悲しい指ではなく、私をあなたの芯としてくれないか。
私の手が涙に濡れたぺさんの手を導いた。
「謙信…?」
私の様子にぺさんは驚いた。
驚きは涙まじりの笑顔に変わり、笑顔は愛になって私を許した。
妻とはなんと愛おしい生き物であることよ…。
私は愛に身体を深く沈めて、白い陶酔に自分を染めた。
「…ぺさんはどこか怪我もしているのか? 身体が血でずいぶんと汚れている。
一体どうやって帰って来た?」
私はぺさんの裸に傷口を探した。
「私は怪我などしていない、ただの返り血だ」
「返り血…?」
「何でもするとはそういう事…」
「…なんという大逆無道を」
ぺさんはふふと笑って私の下で膝を立てた、男はそれに逆らえない。
「私は謙信のためなら何でもする…まずは会社を自分のものにした。
そのためには金に汚そうな男をつかまえて、結婚すれば一石二鳥。
代替わりのいい理由になるし、あの男が勝手に資産を狙って勝手に動いてくれる。
会社は自然とあの男の手に渡る、私の邪魔はまずひとつ片付く」
自分で選んだ結婚…そういう事か。
ぺさんは武本の会社を潰すために、自分を縛る障害を潰すために、
結婚という形であの男を利用したのだ。
「もうひとつの邪魔は簡単…人が相手なら殺すまで」
「ぺさん、そなたまさか両親を…」
「殺したよ、当たり前じゃないか。私はどんな事をしてでも謙信のもとへ帰る。
たとえ離れていても謙信のそばにいたい。
甘粕と政宗が謙信をソーシャルゲームの仕事に誘っていた、これは潜り込むしかない。
私も姐としてあの仕事を少し手伝った、仕組みは知っている。
初めは敵として覚えてもらって、それから連合を解散して接近する」
それが「X-DATE」の正体か。
「ガチャを回す事で同時に会社の資産も削れて、上杉にも援助出来る。
法人にして経費扱いにすれば、発覚も多少は遅らせられる。
せめてゲームの中だけでもいい、謙信のそばで謙信を助けたかった」
ぺさんはそこまで言うと、長い手足を私の上で結んで目を閉じた。
「…私は上杉謙信の妻、私の全ては謙信のために」
家の外に車の停まる気配がした。
グレイアムと政宗だろうか…いや、もっと大勢だ。
ぺさんもそれに気付いていた。
「警察だよ…殺人と背任、当然の結果だ」




