第4話 上杉の庭
第4話 上杉の庭
ぺさんは部屋の本棚から本を取り出して、それを開いて見せてくれた。
「驚いた、謙信は『上杉謙信』を知らぬのか…。
『上杉謙信』…戦国の優れた武将の名前だ。軍神とされるほど戦は強かった。
毘沙門天を信仰しており、信仰と勝利のために生涯不犯を貫いたほどの人だ」
「上杉の家は確かにありましたが、そんな武将いたかな…」
上杉の家は私もいたが、謙信などそのような見事な武将はいなかったように思う。
家臣や領民、近隣の国にとって、迷惑千万な僧しかいなかったはずだ。
「ただちょっと変わった人で、大名のくせに出奔を企てたり、
酒浸りだったり、無益な戦を繰り返したり、問題も多かった人だ」
出奔…? 酒…? どこぞの誰かじゃあるまいし…。
「偶然なのですが、私の僧侶としての名にも『謙信』が含まれておりまする」
「へえ…そうなのか、意外だな」
「『不識庵謙信』…私の元の名にござります。
『上杉謙信』とは、もしかしてここに来る前の私の事なのでは…?」
身につまされる心当たりがあまりにも多過ぎる。
恐らく前の世の私は、この世の者が言うところの『上杉謙信』なのだろう。
「私は上杉の家におりました…関東管領でもあり、越後を治める領主だったのですが、
どうにも気分の浮き沈みが激しく、そのため酒に逃げてばかりで、
家臣らはじめ周囲の迷惑でしかありませんでした。
遠征を控えた春のある朝、厠に立ったところで気が遠くなってしまい、
気が付けばこの世におり、男たちの手で病院に…」
私はこの世の者に、初めて自分の過去を語った。
しかしぺさんは首を横に振って微笑んだ。
「…良いのだよ謙信、昔の事を無理に語らずとも。
今私の目の前にいる男は、心に淋しさを抱えた悲しい男。
新しく『上杉謙信』と名付けられた男、そうとしか見えぬ」
結婚には驚いたが、ぺさんという人は情け深く優しい方だ。
ぺさんの迷惑にはなりたくない。
こんな優しい人を傷つけてはならない。
「ぺさん…こんな私など夫に迎えても、ぺさんには迷惑千万にござりまする。
どうか今からでも離縁くださいまし、それがぺさんのためかと…」
するとぺさんは、膝に置いた私の手に自分の手を重ね置いた。
元の世を離れた私への散華のように。
彼女の手は花びらのようにしっとりとし、軽く柔らかかった。
「…謙信、お前は私が選んだ、迷惑も何もかも承知。
誰かひとりぐらい、それを引き受ける者があっても、
それを分かち合う者があっても良いのではないかな…」
私はもう何も言えなかった。
夏の西日が射す部屋でぺさんの膝に顔を埋め、声をあげて泣くばかりだった。
ぺさんが風呂を沸かし、着替えを用意してくれたので風呂を使った。
風呂上がり、座敷から見える庭に出てみる。
小さな庭だったが植木が植えられ、庭石が置かれ、池まで作られてあった。
そしてこの家の玄関は全く陽が射さなかったのに、この庭は違った。
夕陽を浴びて、庭のあちこちがそれに反射して燦然と輝くようであった。
…美しい、まるで極楽浄土の縮図のようだ。
「どうした謙信」
ぺさんが私を見つけて、庭へ降りて来た。
「ぺさん、この庭はまこと美しゅうござりまするね…」
「この家唯一の自慢だ」
「極楽浄土をそのまま小さくしたように見えまする」
「そう言ってもらえると、父と母、祖父、上杉の組員ら…この庭を作った者も喜ぶだろう」
ぺさんは笑うと、あの庭石は組員らが置いてくれた、この池は皆で掘った、
母が花を植えて、父や祖父が毎日掃除をした、そう私に教えてくれた。
「この庭は小さいけれど、上杉の皆で作った極楽浄土なのだよ」
「皆で…?」
「謙信もこの庭作りに参加するか?」
「えっ…良いのですか」
「庭は作っただけではなく、維持していかないとな。
そうだな…明日から草取りと掃除を謙信に頼もうか…」
こんな私にも役目が…?
「嬉しゅうござりまする…! こんな私でも出来る事があるのですね…。
私はただ周りの迷惑となるだけではないのですね…!」
「謙信…私にはこの世は現世だが、お前にとって死後の世界かも知れない。
ここを極楽浄土とするかどうかは、お前次第だ」
私次第でここが極楽浄土となる…素敵な言葉だ。
「信仰の厚かったお前に毘沙門天が与えてくれた国、私はそう思うよ…。
さ、そろそろ中に入って…夕飯にしよう」
ぺさんは雪駄を脱いで、縁側から家の中へと入っていった。
私も嬉しくその後に続いた。
居間の机の上にはもう食事が用意されてあった。
鯛の刺身と野菜の煮物、みそ汁、白飯の簡素な食事であった。
「夏に鯛とは珍しい、しかもなぜこんなに立派な…?」
「鯛も養殖と言って、ここでは稚魚から育てる事が出来る…年中安定した量を穫れるのさ」
「なんと…! 時期が限定されぬとは、量を確保出来るとは素晴らしい技術」
「鯛は祝いの魚だ、季節問わず通年の需要がある」
「今日は祝いにござりまするか」
ぺさんは透明のびいどろで出来た、深みのある盃に茶を注いでくれた。
「…祝いだ。お前の退院祝いと、私たちの結婚の祝いだ」
「私たちの…盃は酌み交わさないのですか?」
「それは後日改めて執り行うが、ここでの結婚は届けを国に提出し、
受理されればそれで成立する…実は私たちのような、家のための結婚は珍しいのだよ」
「まことにござりまするか、えー…?」
私は戸惑った。
前の世の結婚とは、家のために行うのが普通だったからだ。
「それではぺさん、ここでは好き合った男女が自由に結婚しても良いのですか?」
「もちろん、それがここでの主流だ」
「…ぺさんは私を好きになってくださりまするか?」
「それもお前次第…」
ぺさんは乾杯と言って自分の盃を掲げ、私の盃に軽くぶつけた。
きっと好きになってくれる、私は彼女の笑顔にそう確信した。
私たちは夜を、縁側で果物でもつまみながら月を眺め、
夜空を流れる蒼い雲のような、とりとめのないおしゃべりをして過ごした。
二階の法衣が干してある部屋に、二人でふとんを敷いて寝支度をする。
一組の寝具に枕を二つ並べて、隣り合って横になる。
無理に睦み合わなくとも良い、ぺさんがそう言ってくれたのがよかった。
お互いに微笑み合って、おやすみを言って眠る。
疲れていたのか、私はすぐに眠ってしまった。
…ぺさんの隣に眠るのは、なんだかとても安心する。




