第37話 嫉妬
第37話 嫉妬
「謙信…」
ぺさんは私を見つけて、歩み寄った。
久しぶりに会う彼女は妻だった頃と変わらずに、いやそれ以上に美しかった。
それは真夏の一番高いところにある太陽のように、しんとしながらも強さのある美しさだった。
「確かに上杉が調べた通り、会社の経営は傾いている。
今のだんなもあまりいい人には見えないかもしれない、それでも私は幸せだと思う。
全ては私が私のためにそう決めた事なのだから」
「そうか…それなら良かった」
私は安堵する一方、淋しさを感じた。
私が変わったように、ぺさんもまた変わった。
彼女は笑顔のまま、私に手を差し出して握手を求めた。
「今日は心配してわざわざ来てくれて嬉しかった…ありがとう。
謙信がいたから私は頑張れる、私は幸せになるよ。
自分の幸せは自分の手で…あの日謙信がくれた愛情に恥ずかしくないように」
…ぺさんは本当にまぶしい人だ。
もう私がいなくても大丈夫なのだね、私がしてやれる事は何もないのだね。
この手を離したら、それが本当の別れなのだね。
「…私も幸せになるよ、上杉の皆と一緒に。
ぺさん、そなたが引き合わせてくれた…ありがとう」
私は皆を促して、玄関へと歩き出した。
上杉謙信という戦国の武将はたった今死んだ。
私も幸せになりたい、この世の者として。
あの日、ぺさんが流した涙に恥ずかしくないように。
私は上杉謙信、社会の底辺を生きるただの男…!
その時、私たちとすれ違うようにして、一人の男が武本の社屋に入って来た。
新井博物館の悠さんほどではないが、背も高く、顔立ちもくっきりとしている。
社員なのだろうか。
しかし社員にしては髪の色も明るく、耳たぶや首筋にアクセサリーが光っている。
ホストをしていた政宗より浮ついた男だ。
男は私たちを見送るぺさんに笑いかけた。
「ただいま成実、お客さん?」
ああ…あの人がぺさんの新しい夫なのだ。
そう気が付いてしまうと、もう男の顔が忘れられなくなった。
その晩は皆で食事をして解散し、政宗の運転で甘粕と三人、上杉の家に帰る。
直政殿は別の付き合いがあると、店の外で別れて行った。
計器のほのかな灯りだけの暗がりに乗じて、甘粕の指が伸びて来る。
まるで淋しさという私の心の隙間を侵すように。
運転席のシートの裏に隠れてミラーから外れ、こっそりと唇を交わす。
…私にとって女はぺさんただ一人。
彼女がいないのならば、私は元通りまた男を愛するまで…。
甘粕は時間のかかる用事を作って政宗に言いつけ、家から追い出した。
そうして私の部屋に押し入って続きを始める。
政宗のような派手さはないが、この甘粕もまた美しい男だ。
何より彼にはねっとりとしたような、何とも言えぬ色気がある。
私は黙って彼の愛撫を受け入れ、黙ってただ抱かれた。
「謙信はどうしてしてくれない? どうして少しも反応してくれない?
俺は謙信を抱きたいんじゃなくて、謙信に抱かれたい」
私を抱きながら、甘粕はまた泣き出した。
彼がどんなに色気を振りまこうが、どんなに尽くそうが、それは少しも心に響かない。
私は泣き疲れて眠る甘粕を部屋に残して、風呂を使った。
私の心には昼間見た男が焼きついて離れずにいる。
あの男がぺさんの新しい夫なのだ。
見たところ男は私よりも若く、そして私よりも健康そうだった。
そんな男があれほどの女を求めない訳がない。
夜、あの男はぺさんを抱くのだ。
熱いシャワーに打たれながら、私の思いは憎しみに乱れていく…。
…ぺさんはどんな風にあの男を受け入れるの。
あの男に触れられて、あの男を芯として、どんな反応をするの。
あの柔らかな唇は、あの白く長い指は、あの男の上にも遊ぶの。
息を弾ませて、甘い声で泣くの。
背中で脚を交差させて、揺れて動くの。
熱く収縮して、硬直しながら溶けて弛緩していくの。
私がこの目で見たように、私がこの手で触れたように。
気が付くと熱さに指が動いていた。
想像が血を引き連れて集まり、痛いほどの形になる。
…こんな今頃になって、こんな事で。
真白に凝固し、排水口へと吸い込まれて行く塊を見送りながら、私は泣いた。
「謙信、午後からちょっと付き合って欲しいんだけど」
朝、帰って来た直政殿が、5杯目のおかわりを煮物碗に盛りながら言った。
甘粕はまだ寝ており、朝食は直政殿が用意した。
白飯にみそ汁、たまご焼きにあじの開き…堂々たる和の朝食だ。
「構いませぬが…どこへですか?」
「井上会の総本部だよ、おやじさんと夕方からパーティに行く約束なんだけど、
謙信にも一緒に来て欲しいんだ」
「あ…仕事だったのか、それなら」
直政殿はそれから座敷で一眠りし、甘粕が作ってくれた焼きそばの昼食を食べると、
風呂を使って支度を始めた。
「和服とは珍しいですね」
「パーティだからね…一応正装しなきゃ、謙信も着替えておいでよ」
正装の紋付を着付けた直政殿は、髷こそなかったけれど、
井伊万千代直政…戦国の武将の面影があった。
この日は甘粕や政宗の送迎ではなく、井上会からの迎えがやって来た。
台湾で乗ったものによく似た、細長い黒塗りの大型車だった。
確かに上杉が所有する普通の車では、直政殿を乗せられない。
「直政にござりまする、よろしゅうござりますか」
私を従えた直政殿は一声かけてから、若いのに大広間の襖を開けさせた。
そこには井上会の幹部が全員勢揃いしており、広間の左右に分かれて整列していた。
その中に信玄殿を始めとした上杉の者らも混じっており、私は大層驚かされた。
「信玄殿に皆も…なぜここに?」
「おやじさんの呼び出しさ」
信玄殿が笑った。彼らもパーティに同行するのか、紋付で正装していた。
部屋の奥からおやじさんの歓迎する声がする。
「直政殿、パーティへ出かけるのでは…?」
「もちろん行くけど、ちょっとその前に打ち合わせだよ」
「謙信、こちらへおいで」
おやじさんに手招きされるがまま、私は奥へと進んだ。
「皆も知っての通り、謙信にはちょくちょく私のお伴をしてもらっている。
どこへ連れて行っても立ち居振る舞いに粗相がなく、会う人からの評判もいい。
しかし今のままでは、同行出来る範囲が限定されてしまう。
そこで謙信を昇進させて身分を与え、その範囲を広げてやりたいが、皆はいかがか」
おやじさんが私を昇進…?




