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第32話 井上のおやじさん

第32話 井上のおやじさん


「最初はどこかホテルを手配しようと考えていたんだけど…。

謙信殿も直政のあのでかさを思い出して欲しい、あれではホテル側に迷惑でしかない、

どこか気心知れた家にお願いするのが一番かと」

「ああ…確かに」


私と吉富殿は、直政殿の巨大さを思い浮かべていた。


「集まりの他に、日本での仕事をいくつか予定していて、

滞在はひと月近くになると思いますが、その間どうか直政をこき使ってやってください」

「そんな…使うなどと」

「直政は太っても井伊万千代直政…私と井上会にいた時期もあるから、上に顔は利きます。

知っての通り動けるデブですから、抗争の際には戦列の端に添えてくださっても」


広間に人が集まり出し、私たちは話を打ち切って仕事に戻った。

集まりそのものはそれぞれのしのぎの売り上げ報告など、いつも通りだったが、

終わった後、吉富殿は私を側に呼んだ。

そこには井上会の上層部が勢揃いしていた。

上杉など小さな組織にとって、普段は雲の上の人たちだ。

吉富殿は会長に私を紹介して言った。


「おやじさん、謙信なら適任じゃないかって思っています。

私はもう台湾に帰らなくてはなりませんし、今度の接待に謙信を同行させてみては?」

「そうだねえ、イーサンのおすすめなら確かだろう」


井上会会長である、井上のおやじさんは信玄殿よりさらに年上らしい。

まっ白な髪をしており、痩せて小柄な老人だった。


「謙信は私の知る者の中では抜きん出て教養高く、茶や花、歌にも秀でていますし。

書も見事、それから琵琶の名手でさえあります」

「えっ…」


確かにそれらをたしなんではいるが、なぜそれを…?

すると吉富殿は片目をぱちとつぶって、上杉謙信だろと笑った。


「上杉の頭は上杉謙信か…上杉も面白い男を見つけたものよ」

「恐れ入りまする」

「ごらんイーサンや、その姿まで謙信公を思わせる」


井上のおやじさんも私に目をやって笑った。


「謙信や、今度の接待は財界の重要な人らが集まる大事な集まりだよ。

同行者には誰か教養のある者をと思っていたけど、肝心のイーサンが不在と言う。

どうかイーサンの代わりにお伴しておくれ」

「は…ありがたき幸せ」


解散の後、吉富殿に誘われ、私と甘粕もそのまま食事会に参加する事になった。

会場は吉富殿が贔屓にしている、ホテルの中華料理店だった。

私と甘粕が酒を断ると、井上のおやじさんはそれを大層喜んだ。


「さすが上杉は厳しい家だね、噂は聞いておりますよ…下戸の集団と」

「もったいなきお言葉にござりまする」

「私ら極道も今じゃ一般の企業と何ら変わりない、それなのに上杉はどうだ。

こんな上層部の食事会でも酒を断るときた、普通はそこを曲げて受けるところだ。

…上杉はいつでも戦える、そう受け取って良いかな?」

「恐れながら、それが上杉の仕事にござりますから…」


上杉の家は日々のしのぎの他に、他の組から依頼を受けて、

抗争に戦力を貸し出す事もしていた。

会長の私が直接参加する事はなかったが、そちらの方が本業と山本が教えてくれた。


「そういや真田組はどうした、甘粕の事件以来とんと音沙汰がない」


ある日の事、会社で山本に聞いてみると、山本は傷だらけの顔をしわくちゃにした。

普段は圧倒的な強面だけあって、その笑顔は誰よりも甘い。


「真田組はもうとっくに壊滅したよ」

「えっ、いつの間に」

「甘粕の事件の直後、俺と宇佐美で潰しといたから。

上杉は忙しい、真田とか小物と小競り合いしてる場合じゃないんだよ。

今だって新宿の組から、韓国との間に入ってくれないかと依頼が来ている」

「…それ、私も連れて行ってはくれないか。

皆が命を懸けて戦っている中、私ひとりが陣中でぬくぬくしているのは心苦しい」


すると山本は再び傷だらけの顔をしわくちゃにして笑った。


「謙信には謙信にしか出来ない仕事がある、汚れ仕事は俺らにまかせて、

謙信は人と会ったり、話し合ったり、そういう仕事をして欲しいんだ。

社会の底辺出身の俺らには、謙信のような教養とかどうもなくってさ…。

武田さんもそれを見込んで、謙信を選んだんだと思うよ」



それから井上のおやじさんに同行した接待の中で、茶の席が設けられ、

私の立ち振る舞いは政財界の人らにも驚かれた。

物の受け渡し、菓子の食し方、茶碗の向き…どれもささいな事だ。

戦国のあの世では、武家として茶の湯は必須のたしなみだったが、

まさかこのような事で、それが役立つとは…。


「上杉さんはお茶を習われていたのですか? とても初めてとは思えない」

「ええまあ…ほんのさわりばかりで恥ずかしゅうござりまするが」

「記帳の文字も見事、書道もたしなんでおられるとは」


戦国武将として当然のたしなみは、それからも人と会う時に役立ち、

井上のおやじさんも、ちょくちょく私を同行させるようになっていった。


「…私ら極道は家庭に恵まれなかった者が多くてね、当然教育水準も低い。

私も必要に迫られて勉強したんだけど、何しろ大人になってからだから、

なかなか身に付かなくて、いろいろ苦労したんだよ」


ある集まりからの帰り、車の中で井上のおやじさんはそう語ってくれた。


「謙信はどこか良い家の子だったんだろうね…その教養は昨日今日のものじゃない。

そこは大事にするんだよ、そうしたらきっとこれからも謙信を助けてくれるから。

ヤクザだからって、心まで卑しくなってはいけないよ」


井上会の会長というからには、さぞ恐ろしい人物かと思っていたが、

おやじさんはとても優しかった。

…こういうヤクザもいる、こういう人の下につけるのが嬉しくてならなかった。

吉富殿が組を離れた今でも、顧問としてつながり続けるのもうなずける。


上杉の家は規模こそ大きくはないが、井上会の中でも特殊な立ち位置で、

会議などの集まりで総本部に出仕すると、他の者らも一目置いているのを肌で感じる。


「見ろ、上杉殿のお出ましだ」

「こないだの新宿の抗争にも力貸してさ、韓国のやつら相手に、

不利だった戦況をひっくり返しやがった」

「下戸で童貞の集団とか良く言うよ、本当はいつでも動けるようにしてるくせに」

「しっ、ここは笑っておかないと…」


井上会の者らも気を遣って、上杉を笑ってくれている…。

かつて信玄殿は、上杉は笑われる事に意味があると言った。

それも今ならわかる。

手の内を敵に読ませてはならぬ、上杉は下戸で童貞の集団でなければならぬと。


「よし、そんじゃここは俺が上杉を腐向け集団にだね、うーんといやらしーく…」


翌々月に台湾からやって来た直政殿も笑って、この事を思い切り冷やかした。

直政殿は裏が白いチラシを、居間の机の朝刊の束から抜き取り、

ボールペンでさらさらと絵を描き出した。


「えっ…」


私と甘粕、そして政宗の三人は、直政殿の丸々とした手から産み出される絵に驚愕した。


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