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第27話 きみは天女

第27話 きみは天女


「ぺさん、それは離縁にござりまするか…?」


私は驚きで茶碗を取り落としてしまった。


「はい、引き裂くようで申し訳ないのですが…」

「それは出来ませぬ。私はただの入り婿で、この家の主人はお嬢様と申し上げたはず。

私ひとりが勝手に決めて良い事ではござりませぬ」

「娘はうちの跡取りでもあります」


なるほど、それはぺさんのご両親も無礼かつ強引になるはずだ。

とっくに成人した、しかももう若くもない娘の結婚にも親が口出すはずだ。


「娘の背中には家だけではなく、会社もあります。

その結婚は一般家庭の娘のように、本人同士の感情だけで決めていい事ではない」


…わかる。

こんなだめな男でも、戦国の武将だった男だ。

若い頃にはいくつか縁談もあった、何人か恋した女もあった。

生涯不犯の誓いを立て、結婚する事なく独り身を選んだほどだ。

結婚の意味は他の誰よりも、この私が一番にわかっている。

誰よりも恋を思ったこの私が一番にわかっている。


「それはわかりまする、私もまたそういう生まれにござりましたから…。

しかしながらぺさん、お嬢様はそなたの可愛いお嬢様。

お嬢様を思うならば、どうしてその幸せを優先して差し上げぬのでござりまするか」


戦国の武将が独り身を通す…それがどれほど非常識な行いであるかは承知だった。

生涯不犯はだからこその結果だった。

私の心の自由を、幸せを、守るにはそれしかなかった。

でも今は違う、私はぺさんと出会ってしまった。

彼女の幸せが、そっくりそのまま私の幸せになってしまった。


「私は望まれて婿に入った男にござりまするが、お嬢様の事は誰よりも思うておりまする。

お嬢様の幸せはそのまま私の幸せ、最優先いたす所存にござりますれば、

本人の望まぬ離縁など到底出来ませぬ」


私は襖の向こうに控えている甘粕殿を呼んだ。


「甘粕殿、お客様をご案内してください」


襖が段階を踏んで静かに開き、甘粕殿が一礼をして座敷に入って来た。


「ご案内いたします」

「これは…さすがは上杉、名高い極道の家ですね」


ぺさんの父親は私をきっと睨みつけた。


「私もこのような家に娘を置いておく事など、到底出来ません。

当たり前です、可愛い娘がヤクザと関わる事を望む親がどこにいますか。

愛する子供の幸せを願わぬ親がどこにいますか…!」


私はこの言葉にどきっとした。


「離婚届はこちらから郵送します、署名して返送ください。

…もしもあなたが娘の幸せを本気で望むのならば」


ぺさんの父親はそう言い残すと、甘粕殿の案内もよそに帰って行った。

甘粕殿が私に近寄って来て、つぶやくように言った。


「謙信…俺はいつでも構わない、命令してくれ」

「それはなりませぬ、ぺさんの父君にござりまする」

「なんで! あそこまで言われて悔しくないのか…!」


甘粕殿は私の腕にしがみついて、揺さぶった。


「悔しゅうござりまする…なれど、上杉が極道の家なのは曲げようもない事実。

ぺさんの父君の言い分はもっとも、当然至極の事にござりまする」

「…謙信!」

「わかるのです、ぺさんを愛しているのは私も同じにござります故…!」


私は甘粕殿に頭を寄せ、涙の粒を彼の膝にこぼした。

私の完敗だった。

言い返したつもりが言い返せなかった。

愛が必ずしも勝てるという訳ではないのだ、愛は愛の前に敗れるのだ。


それからほどなくして、「離婚届」なる用紙が郵送されて来た。

よその組から届けられる「破門状」や「絶縁状」もうそうだったが、

この世の「郵便」という制度は実によく出来ている。

「はがき」や「切手」なる物を買いさえすれば、一般の民でも通信が可能だ。

しかも安価で、いかなる遠国へでも確実に書状は届けられる。


送られて来た「離婚届」に、ぺさんの記入はまだなかった。

甘粕殿と政宗殿に書き方を教わりながら、必要事項を書き込む。

私は結婚前から「上杉」だったので、離婚した後も「上杉謙信」のまま変わらぬらしい。


離婚届に記入はしても、それを返送するふんぎりがなかなかつかず、

手許に置いたまま、時間だけが流れて行った。

ぺさんの家から催促が来るかと思っていたが、それも不思議となかった。


ひと月が経とうとしたある夕方、私は庭の掃除をしていた。

ごみや枯れ葉を拾い、草を引いて、植物に水を与える。

夕暮れ時の庭は本当に美しい。

玄関は昼間でも薄暗く、夏でもひんやりとしているというのに、

この庭にだけは光が集まって、眩しく輝いている。


…ぺさんの両親は娘にそういう人生を望んでいるのだ。

それは私と一緒では到底叶えられぬ事なのだ。

だからこうして私に離縁を迫るのだ。

彼らの思いはわかる、養親とは言え私もまた人の親だったから。

もしも子らがヤクザとの縁組みを望んだならば…やっぱり反対しただろう。

私に出来る事は…。


その時、玄関の門が開く時の重くきしんだ音がし、誰かが庭へと回って来た。

そろそろ夕飯の支度をしに、組から当番の者がやって来る時間だ。

今日の当番は甘粕殿だろうか、政宗殿だろうか。

二人の作る食事はありがたいし美味しい、けれどぺさんの作る物とは味付けが違う。

ぺさん…私は掃除に使うほうきを抱くようにして、背中を丸めた。


「…謙信」


甘くしっとりとした声が、私の丸い背中に投げかけられ、

私はその意外さに振り返った。

そこには実家に帰ったきりだったぺさんがいた。


「ぺさん…!」


服装はだいぶ白っぽく、スカートなる膝下まである今様の腰巻きを着けており、

雰囲気がずいぶんと変わったように思う。

白い服装が燦々と輝く夕暮れの庭と一体になって、彼女は天女や女神のようだった。

何の陰りもなく、何の汚れもなく。

…この人は初めから住む世界の違う人だったのだ。


「帰って来たよ…家から逃げ出して来た」


ぺさんは私に抱きついて、顔を胸に埋めた。

私は彼女を抱き返しはしなかった。

苦しさにぎゅうと目をつぶった。


「…ぺさん、もうここへはおいでになってはなりませぬ」


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