第22話 姫鶴一文字
第22話 姫鶴一文字
吉富殿と直政殿の伊家屋敷の広い庭は、背の高い木に囲まれており、
庭全体がちょっとした森のようになっていた。
南国の事なので、見た事もない珍しい花があちこちに咲いて色鮮やかだ。
森の中央に大きな池と遣り水があり、池に突き出るようにして東屋が建っていた。
吉富殿は東屋とは言うが、たぶん釣り殿も兼ねているのだろう。
橙色の屋根に、やはり明国のような琉球のような、台湾式の装飾がされてある。
…まこと美しい庭だ、規模も含めてこれほどの庭園はなかなかない。
戦国のあの世の貴人でも有することは難しいだろう。
ましてや一介の大名ごときが有していいような庭ではない。
「いーさん、来たよ!」
直政殿が私とぺさんを見つけて、笑顔になった。
贅肉の袖をたぷたぷと揺らしながら、ぶりぶりと太い腕を振る。
「吉富殿…まこと美しい庭にござりまするね、驚きました」
「古くからある家だからね…さ、始めようか」
私たちは香りの良いお茶を何杯も飲みながら、次々と供される料理を楽しんだ。
料理は蒸し物が多く、少しずつせいろに盛られてある。
ぺさんの予告通り恐ろしい旨さなのに、いくらでも食べられる事にまた驚いた。
「今日はね、ソンシルと謙信殿が来るって言うからさ、
いーさん超はりきっちゃって、昨日から用意してたんだよ」
直政殿が頬をぱんぱんに膨らませながら、吉富殿を冷やかした。
「えっ…これ全て吉富殿のお手製にござりまするか」
「一応私がこの家の主人だし、大事な人は主人自らもてなさねば。
生粋の台湾人は違うだろうけど、私は日本生まれの日本育ちだから…」
「主人自らもてなすとか、茶の基本だよね? いーさん」
驚いた、この世の者にも茶の湯の心があるとは…!
ぺさんがそれを察して、そっと耳打ちして教えてくれた。
「謙信、極道でもおばあさまのような地位の高い者は、一通りのたしなみがある。
人と会うのが極道の仕事だ、相応の教養がなければ務まらない」
「ふうん…武家と同じでござりまするね。
そういや直政殿に『関ヶ原の戦い』を聞かねば、ぺさんが直政殿の方が詳しいと」
「はい! この井伊万千代直政におまかせを!」
直政殿は立ち上がろうとしたが、肉を机と椅子の間に挟んで撃沈してしまった。
「井伊万千代直政」って…直政殿には苗字と諱の間に名があるのか。
あの世の武家には普通だが、この世の者としては珍しい。
「直政殿は珍しゅうござりまする、苗字と諱の間に『万千代』と名がござりまする」
「私もあったよ、『紅千代いーさん』って…『吉富紅千代いーさん直政』」
「えっ、私はないよ? 『上杉成実』、旧名だと『ペ・ソンシル』だし」
「私もござりましたよ? 私は幼名が『虎千代』だったから、
『上杉虎千代輝虎』とか、『上杉虎千代政虎』とか、『上杉虎千代なんとか』的な。
『不識庵謙信』と名乗るまで、その時々の名に合わせて…私は何度も名を改めました故」
「えっ」
私が言うと、吉富殿と直政殿はぐりんと私の方を向いて注目した。
「ちょっ…! 『上杉虎千代』って、『不識庵謙信』って…いーさん!」
「…まいったね」
簡単な食事と吉富殿は言うが、あまりの美味につい食べ過ぎてしまった。
ぺさんが隣で「そら見た事か」と笑っている。
「だめですよ謙信殿、そんな事で満腹になってもらっては…。
夕食にはもっとすごいご馳走が待っていますから」
「んじゃ謙信殿、俺の稽古にちょっと付き合ってよ。
俺も夕飯が超楽しみだから、動いてお腹減らしとかなきゃ」
吉富殿より夕食の事を聞いた直政殿が私の手を引いた。
直政殿は私を庭に待たせると、一旦家の中に入り、
しばらくして武器を手に戻って来た。
彼は私に太刀を差し出した。
「これ使ってよ、俺の予備のやつなんだ」
その太刀は黒い鞘に収められてあり、匕首のようにつばがなかった。
少し抜いてみると、幅のある刀身が覗く。
見覚えのある太刀だ…あの世の私が大事にしていた太刀だ。
「…姫鶴一文字!」
どうしてこの太刀が台湾に、この世にあるのだろう。
「模造刀だよ。日本から取り寄せてね、こっちで職人に刃をつけてもらったの」
「驚いた…! しかし良う出来ておりまするね、まこと模造刀にござりまするか?
これは明らかに本物以上の物にござりまする…」
刀は数え切れないほど握った事がある、この刀の本物だって知っている。
姿こそ姫鶴一文字に似せてはあるけれど、この太刀は本物以上の太刀だ。
この世の進んだ技術の粋が詰め込まれてある、そういう感触がする。
「そういう事にしといてよ、でなきゃ捕まっちゃう」
「あ…」
そうだった、身分高いヤクザの吉富殿の夫である、直政殿もまたヤクザ…。
直政殿は戦う者なのだ…あの世の武家と同じく。
この姫鶴一文字は美術品として、鑑賞するための模造刀などではないのだ。
戦うための武器として実用するために、便宜上姿だけ似せた模造刀なのだ…!
「…謙信殿は弱いね、それでも軍神なの?」
庭の開けた芝の上で手合わせしてみると、直政殿は一瞬で私を倒した。
デブと侮っていたが、刀を抜くとまず目つきが変わる。
直政殿は一匹の冷たい魚だった。
動作も素早い、そして醒めきって迷いが一切ない。
どう動けば良いか、弱点はどこか、頭ではなく身体が導くのだ。
こんな不識庵謙信とか、酒に溺れていた男とは訳が違う。
直政殿は戦い続ける男なのだ。
ずっと怠けていた上杉謙信ごときが何度挑んでも、敵うはずはなかった。
これが井伊万千代直政か…。
「参りました…直政殿は本当にお強うござりまする」
私はとうとう降参し、芝に寝そべった。
直政殿は冷たい魚からただのデブへと戻り、笑顔になった。
「なんの、謙信殿も全然悪くはないよ…しばらく稽古出来ていないだけじゃないの?
まず素人の動きじゃないよね、相当に戦ってきた人の動きだもん。
…そう、まるで戦国の武将のようにね」
「直政殿、そなた…」
私は直政殿に訊ねようと口を開いた。
すると、直政殿が新しい言葉で私の言葉を遮った。
「謙信殿…謙信殿の『上杉謙信』てのは同姓同名じゃなくて、本名なんじゃないの?
『上杉虎千代なんとか』はこの世では、『上杉謙信』と統一されて言うよ。
謙信殿は戦国の世からやって来た、上杉謙信本人じゃないかな…俺はそう思うんだけど」
「え…」
「だって俺がそうだったから」




