第17話 ぺさんという生き物
第17話 ぺさんという生き物
甘粕殿の傷は間もなく塞がり、十日とちょっともすると退院し仕事に復帰した。
その年の暮れ、「ホストクラブ上杉」では、政宗殿が引退を迎えるとの事で、
私もその宴に招待され、甘粕殿と一緒に花束を買って参加した。
その夜の政宗殿は特にめかしこんでおり、白いスーツに銀の装身具が、
店内の灯りに反射して、きらきらと眩しいほどだった。
政宗殿はたくさんの客を持っており、店内をぎゅうぎゅうに埋め尽くしていた。
あちこちから高い酒の注文が入り、お疲れさまとありがとうの声がかかる。
私たちはその様子を裏の事務所から見ていた。
甘粕殿はジュースの盃片手に興味なさそうにしていたが、その目が笑っていた。
「…甘粕殿はやっぱり政宗殿が可愛いのでござりまするね」
私は思い切り甘粕殿を冷やかした。
「まあ、あいつが上京してきた頃…ゲイ同士長い付き合いだからな。
俺たちゲイってのは少数派で、なかなか社会の理解を得にくい、助け合わないと」
「ふうん? 甘粕殿はぺさんと同じ事おっしゃる…。
ぺさんも上杉の家は助け合いの家…義でつながる家族と」
すると甘粕殿は盃を机に置くと、私の肩に手を回し、額と額がくっつくほど近くで言った。
「…なら、謙信は俺の事も助けてくれるのか?」
空いた手で私の手を取り、緩めた衣の中へと挿し入れる。
へそを起点とする毛の流れのさりさりとした感触がした。
そこから下、見て触れて、私は甘粕殿に心底羨望を感じた。
同時に自分自身にいっそう自信がなくなってしまい、私はそっと手を引き抜いた。
家に帰ると、もう遅いと言うのにぺさんが起きて待っていてくれた。
彼女は二階の部屋で、趣味の小説を書いていた。
「ぺさん、先に休んでくださっても良かったのに…」
「起きて待ちたかったのさ…私のところに帰って来てくれる人がいる、
その人を待つ事が出来る、それってすごく幸せな事ではないか?」
ぺさんは筆を置くと、乙女子のように顔を赤らめて身を固くして言った。
…可愛らしい、妻とはなんと純情な生き物である事よ。
「…私も…帰るところがある、私を待っていてくださる人がいる、
謙信は日の本一の幸せ者にござりまする」
私はそんな彼女を引き寄せて、そうっと抱きしめた。
ぺさんの手が私の背中で交差した。
普通の夫婦ならば、このまま睦み合うのだろう。
だが私は前の世であまりにも深酒し過ぎた、私の脚の間には役にも立たぬ物しかない。
もしも甘粕殿や政宗殿のように、私の身体がちゃんと反応するのならば、
私は堂々とぺさんを求めて、肉体的にも妻とする事が出来るだろうか。
この愛しい人に、愛していると伝える事が出来るだろうか。
こんな夜を私はどうしたらいいのだろう。
庭を掃除し、通院したり断酒の集まりに出席したりの毎日だったが、
年も暮れの事で私とぺさんは大掃除として、いつもより丁寧に家を掃除した。
それから正月の飾り付けをし、ぺさんは座敷で年始に着る衣の支度をしていた。
広げた衣が畳の上に幾重にも重なって、まるで花が咲いたようだった。
「これはきれいな衣にござりまするな…」
「正月用の物を探しているのだが、この着物はもうちょっと先の物だな」
それは裾周りや肩に浅葱のぼかしがしてある白い着物で、
竹に飛び雀の絵が描かれ、ところどころに金銀が散らしてある物だった。
この世の者は一般の民でも、このように豪華絢爛な衣を持てるとは…。
なんとも豊かな世である事よ。
「竹に飛び雀…まるで上杉の家紋のような衣にござりまする」
「いや、だって上杉じゃん? うちの家紋も竹に飛び雀だよ、由来は知らないがな…」
「同じ上杉でも、この世の上杉の方が私は好きにござりまする。
身分もない、むしろ悪人の集まりでさえある…それでもここには心がある」
思い上がっていた私には、あの世の上杉に尽くす心などなかった。
自分だけが義だと、家臣はそれに従うものだと思っていた。
「謙信、心があれば皆も必ず心で応えてくれるのだよ。
この世の上杉は極道、特に義を重んじる人たちの家だから」
「ぺさん…」
ぺさんは上杉の衣を肩に打ちかけて笑った。
美しい人には美しい衣がよく似合う。
「…愛もまた心、私の愛に謙信は愛で応えてくれるかな」
出来ればそうしたい、この美しく愛おしい人を組み敷いて貫きたい。
私に自信がない、でも…。
「私の心だけでも…身体は思うようにいきませぬが、せめて心だけでも、
ぺさんを貫いて、結ばれとう存じまする」
私がぺさんを思う心はまぎれも無い本物。
私は彼女を上杉の衣ごと抱き寄せた。
そうして始まりも終わりもない、私たちの遊戯が繰り返されるのだ。
「謙信はいいね…始まりがなければ終わりもない、ずうっとこうしていられる。
…私の永遠だ、普通なら男は女を置き去りにするところなのに」
ぺさんは私の頭を脚で挟みながら、かすれた声で言った。
「私は終わりませぬ、永遠はぺさんこそではありませぬか?
ぺさんはなぜこんなに男を知っておられる? 遊女でもないのに遊女のような…」
「私はね…学のある年増だったから、遊女にはなれなかったけれど、
事務員をしていた郭で、ずいぶん男をたらし込んだものだよ…生きるために」
「厳しい暮らしだったのでござりまするか?」
「厳しかったよ…身体が商品の遊女に暴力はなかったけれど、
私は事務員だったから、しょっちゅう殴られたり蹴られたり…」
私はぺさんの若かった頃を思った。
ぺさんは遊女たちより年上、年増と言うが…。
「…ぺさんは四十を過ぎた今でも明らかに美しい。
遊郭にあった頃は遊女たちなど軽く圧倒したであろうね…それが売れっ子相手でも。
それほどのぺさんがなぜ…」
「実はだね謙信、そこなのだよ…そこも私が売れなかった理由なのだよ。
遊郭に来る客に私はあまりにも不釣り合いだった」
わかる、私もぺさんを前にすると、自信がなくなってしまう。
普通の男にぺさんのような女は立派過ぎるのだ。
「事務員をしていて、私を見初める男も時々あったが、
そういう人は客ではなく取引先の人でね、たいてい社会的地位の高い人か、
女を知り尽くしたような顔の良いモテ男でね…でもそれじゃだめなのさ」
ぺさんは背中の毘沙門天を反らせて少し呻いた。
「遊女らの嫉妬の火種になるのさ…だから私には謙信じゃないとだめなのさ。
愛される事も愛する事も、私だけが独占出来るような男じゃないとだめなのさ…」
独占したい…妻とはなんと激しい生き物である事よ。
ぺさんは私を指で誘って、せつない顔で目を閉じた。
「私は愛に恵まれなかった女、愛に飢えた女…。
生涯不犯の裏で、誰よりも愛を思った謙信ならわかるだろう?」
ぺさんは私の指を芯として、問いを投げかけた。
…わかる、痛いほどにわかる。