第15話 リチウム
第15話 リチウム
「甘粕殿…!」
政宗殿含め近くの従業員らが甘粕殿の許へと駆け寄る。
だが私は彼らとは反対に、店の台所へと駆け込んだ。
まな板の上の包丁を盗み出し、握りしめる。
私は帰ろうとしている敵を呼び止めた。
「…上杉はここだ」
「何だ貴様は」
私は問答無用で敵を刺した。
怒りに目が眩み、何も考え無しに動いてしまうのが私だった。
戦国のあの世でも、それが元であまたの失敗を繰り返してきた。
「謙信…!」
甘粕殿と政宗殿が驚きに目を見開いた。
「上杉謙信…私が上杉だ、うちの甘粕が何の粗相をした」
「上杉謙信? 笑わせるな」
私は横たわりながら笑う敵をふふと笑い返した。
「せいぜい今のうちに笑っておくが良い、上杉はそなたらを決して許しはせぬ。
上杉謙信は地の果てまでそなたらを追いかける、そう上に申し伝えよ…よいな!」
そこまで言うと、私は我に返った。
しまった…つい地が出てしまったが、ここはもう戦国のあの世ではないのだ。
「謙信、お前…」
「甘粕殿、大事はないですか? 甘粕殿…!」
私も甘粕殿の許へと駆け寄り、彼の顔を覗き込んだ。
「俺は大丈夫、浅くしか刺されていない…謙信、姐さんに電話をして迎えを頼んでくれ。
すまないが帰りは送ってやれなくなってしまった…」
私はズボンなる袴についた物入れ袋から、薄型電脳小箱を取り出すと、
ぺさんに電話をかけた。
幸い、彼女はすぐに出てくれた。
「どうした謙信」
「ぺさん…迎えを頼み申し上げまする、私はまだ『ホストクラブ上杉』におりまする」
「甘粕はどうした? 用でも出来たのか?」
「甘粕殿は…刺されました」
「何…わかった、家中の誰かを連れてすぐに行く。
謙信はそこで待ってろ、それまで決して外には出るな」
それから半刻もしないうちに、店の外に車の音がし、
山本殿と宇佐美殿がやって来て、続いてぺさんが信玄殿に連れられてやって来た。
山本殿と宇佐美殿は、政宗殿に手伝わせて甘粕殿を車へと運んだ。
私は信玄殿とぺさんに連れられて、別の車に乗せられた。
「大丈夫、甘粕は知り合いの病院へ運んでいる。私らもそれに続いている。
甘粕に聞く前に謙信、まずはお前さんに話を聞きたい」
若いのに運転をさせ、信玄殿は前の助手席から聞いた。
「はい…突然の事でした。私が甘粕殿から政宗殿を紹介してもらっていた時、
部屋の外が騒がしくなって、話し声がいたしました」
「やつらは何と?」
「まとめると敵は『真田組』なる敵対勢力、甘粕殿の店と縄張り争いを繰り返しているところ、
店の客引き同士がもめ事を起こし、殴り込みに来た様子にござりまする」
「…またか」
ぺさんが私の隣でため息をついた。
「敵を店から帰そうとして、甘粕殿は刺されてしまいました…」
病院に甘粕殿を見舞ったが、彼は案外けろりとしていた。
彼に付いていた政宗殿と山本殿、宇佐美殿の三人が固まって、
寝台の甘粕殿と何やらひそひそと話をしていた。
「…あ、謙信」
彼らは私を見るなりびくりとした。
「謙信、お前すっげえな」
甘粕殿は寝台の上に寝そべりながら、笑いかけた。
「俺の仇をすぐに討っただけじゃなく、あの恫喝! ヤクザ相手でも引かねえとか…。
『上杉謙信は地の果てまでそなたらを追いかける』って、どこの上杉謙信だよ」
「え…」
ぺさんと信玄殿は私に目をやった。
「つい頭に血がのぼってしまい、恥ずかしゅうござりまする…」
「ほう、謙信がそんな事を…? 」
信玄殿は嬉しそうに目を丸くした。
「さすが上杉謙信、伊達じゃない。…さて、報復とは言え敵を攻撃してしまった。
あいつらはどう出るだろうか、見物だな」
ぺさんは静かにそう言ったが、目が笑っていた。
そんな彼女に政宗殿が申し出た。
「姐さん、昼間は俺が洗濯とか持って行くっす、俺も伊達じゃないすから」
「政宗、嬉しいがお前は店があるだろう。無理はするな。
そうだな…謙信にも行かせよう、甘粕の自宅ならうちが一番近い」
「ぺさん、おまかせくださいまし。私も甘粕殿を見舞いとう存じまする」
「よろしく、鍵は上着のポケットに入ってるから」
甘粕殿は寝台のへりにかかっている、黒い革で出来た外套を指差した。
「わかり申した、甘粕殿…」
それから私は信玄殿の車に、ぺさんと共に乗せられて家に帰った。
ぺさんが風呂の用意をしていてくれ、私はすぐに風呂を使った。
身体を丁寧に洗ってその日の汚れは落とせても、まだ敵を攻撃した興奮は落ちない。
小田原や川中島、北条との戦いや手取川など、あの世の戦に比べささやかなものだが、
それでも「ホストクラブ上杉」の戦は、久しぶりの戦だ…。
医師は気分の浮き沈みの激しい私に、薬を処方してくれている。
なんでも気分の波を平らにしてくれる薬らしいが、いまいちその効果を実感できない。
寝る前にぺさんが私に触れ、私も彼女に触れたが、
興奮するのは気持ちばかりで、身体がついて行ってくれない。
翌日はちょうど通院日だったので、甘粕殿を見舞う前に外来へと行った。
ぺさんは仕事で、安田殿の送迎だった。
待ち合いの長椅子でぺさんがくれた絵物語を読みふけり、
看護士に「上杉謙信さん」を連呼され、他の患者らに笑われる。
「先生、あの薬がちゃんと効いておるかどうか、いまいち実感できませぬ…。
飲み続ける意味はあるのでしょうか?」
私は昨日からの疑問を医師にぶつけてみた。
すると、髪の薄い初老の医師は声を立てて笑った。
「ああ…それこそがリチウムの効果だよ…!」