第11話 伊達じゃない
第11話 伊達じゃない
「上杉謙信」とはぺさんの教えてくれた通り、戦国の武将だった。
「不識庵謙信」ともある…やはり「上杉謙信」は前の世での私の事なのだ。
しかしながら、この絶賛されようはどういう事だろう。
私が戦国最強の武将に、清らかな心を持つ義の人に書かれてあるではないか…。
実際はこんな心を病んだ、気も身体も小さい、だめな男でしかないというのに。
…これは確かに皆も笑うはずだ。
この世での「上杉謙信」とは、英雄の名なのだ。
そしてこの薄型電脳小箱は、情報を絵でも出せる。
当然「上杉謙信」の肖像画もたくさん出てきた。
青鈍色のあの衣に、淡黄の袈裟をかけ、黒の頭巾をかぶった、
ひげ面の肥えた男が画面の中に現れた。
どうやらこれがこの世での「上杉謙信」らしい。
私より少し後の世に描かれた晩年の姿との事だが、実によく特徴をとらえている。
実際は酒浸りで食事も喉を通らなかったから、痩せてはいたが、
確かに痩せる前の私は丸々と肥えていた。
そしてひげもろくに整えず、伸び放題の髪を頭巾で隠しているだらしなさも、
まことに良く表現されてある。
家の近くの薬局で薬を受け取る。
その袋にも「上杉謙信」と書かれてある。
そして薬局でも「上杉謙信さん」は笑いの的でしかなかった。
私が落ち込んでいると、近くに座る老婦人が言った。
「…あなた、確か上杉さんとこの成実ちゃんのだんなさんよね?」
「あ、はい…」
「こないだ成実ちゃんとスーパーで会った時、言ってたわよ。
『だんなさんは上杉謙信』て、『日本一のだんなさん』て」
ぺさんがそんな事を…!
「そんな…お恥ずかしゅうござりまする」
「うちはね、そこのお寺で地域の活動もしているんだけど、
上杉さん家には昔からずっとお世話になりっぱなしで…」
「えっ…」
お寺に女人が…? 尼寺なのだろうか。
私は家に帰ると、夕食の支度をしているぺさんにこの老婦人の事を聞いてみた。
「ああ…あの人は柿崎さんて言って、近所の春日寺の住職の奥さんだよ。
私も何くれともなく相談相手になってもらっている」
ぺさんは豆腐を手の上で器用に切ると、みそ汁の中へと流すように入れた。
「住職の奥さん…! えーっ! あり得ぬ!」
「…そうか、謙信の世とは違うのだったな。この世の僧侶は妻帯しても良いのだよ。
むしろ妻帯する事こそが大事なのだ」
「ぺさん、それはなにゆえにござりまするか」
「寺の存続のために世継ぎが必要だし、この世の寺は地域の活動もしている。
寺の活動には夫婦で協力しなければ…僧侶にとって奥さんはとても大事なんだ」
…私のいた世の僧侶は生涯不犯が当たり前だった。
だから私もそうして来た。
「だから言ったろ、この世の義があの世では悪、あの世の悪がこの世の義と。
謙信よ…お前はもうこの世の者なのだ、妻帯する事は少しも悪じゃない」
「私はこの世の者…」
私は後ろからぺさんの腰に手を回し、高い背中に頭を預けた。
「ぺさん、私はそなたを妻としても良いのですね…」
「私の夫は謙信、お前しかおらぬ」
ぺさんは私の手に自分の手を重ねた。
私たちはいつものように二人で夕飯を食べる。
月の庭を眺め、果物をつまみながらおしゃべりをする。
瓜ひとつとっても、縞模様の水気の多い瓜、蜜のように甘い編み目模様の瓜と、
この世の果物は珍しい物が多く、そして驚くほど旨い。
「謙信は果物が好きみたいだな」
ぺさんはやたらと粒の巨大なぶどうを頬張る私を見て、笑っていた。
「どれも珍しく美味しゅうござりまする故…」
「この世の果物は作物として、改良に改良を重ねた上のものだからな。
贈り物や供え物にも使われるほどだ…実は今日のぶどうもいただきものなのだよ」
「まことにござりまするか」
「うちのような人の出入りの多い家は、こういういただきものが多いのさ。
ヤクザは人に会う事が仕事だから…」
私のあごを伝うぶどうの汁を指で拭って、ぺさんは唇を吸った。
「…触れるのはいつも私からのような気がする、謙信は私という果物はお嫌いか」
「まさか、自分に自信がないだけにござりまする。
この世の私は『上杉謙信』として、いつも笑われておりまする」
「どうしてだ」
「『不識庵謙信』は、この世で『上杉謙信』なる英雄になっておりまする。
こんな小男が『上杉謙信』では名前負けいたしまする」
するとぺさんは声を立てて笑った。
「やはりおかしゅうござりまするか?」
「いやね、私も名前が『上杉成実』だろ? 時々言われるんだよ、『伊達成実』て。
本当は『ソンシル』、苗字を入れると元は『ペ・ソンシル』て言うんだけどさ…」
「伊達成実…!」
伊達家にそんな人はあっただろうか、たぶん後の人なのだろう、記憶には無い。
「伊達成実は伊達政宗のいとこにあたる。
謙信の世だと、伊達成実は生まれていてもまだ子供で、別の名だと思う。
…で、だから『なんで苗字が上杉なんだ』とか、『伊達じゃないんだ』とかさ…」
「『伊達じゃない』!」
私は腹を抱えて大笑いした。
「笑うな謙信、だから本名が嫌なんだよ…!」
私は後ろから、赤くなってふくれるぺさんを抱きしめると、
彼女の短い髪をくしゃくしゃとかき乱した。
可愛い…とても可愛い、妻とはこの上なく可愛い生き物である事よ。
私は脚の間に座るぺさんをそうっと、くりかえしくりかえし撫でた。
男ならば皆ひとりでそうするように。
私の脚の間にある物は、役にも立たぬ男根じゃなくてもいい。
この人がいれば、私はもうそれだけで良い。
「可愛らしい…愛おしい…言葉では言い表しきれませぬ。
私の脚の間にはぺさん、そなたがいればそれで良うござりまする。
何の役にも立たぬ私の物より、そなたが私の男根…伊達ではなく」
私はぺさんを振り向かせて唇で唇を塞ぎながら、手で彼女の身体の線をなぞった。
始まりもなければ終わりもない、私は妻という男根を愛撫し、
いつまでもいつまでもひとり、夜を遊びに耽った。
明け方近くになって、ぺさんはようやく風呂を沸かし、
私に先使わせて、それから彼女が風呂を使った。
ところがぺさんはなかなか出て来ない。
心配になって風呂場に行くと、ぺさんの声がした。
それは今まで聞いた事もない、すすり泣くような甘い声だった。
甘い声の合間に彼女は、せつなく私の名を呼ぶ。
私はどうしたのだろうと、扉をそっと少しだけ開けて中を覗いた。
そこには女の毘沙門天がいた…。