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第1話  命名

第1話 命名


遠征を控えた春のある朝だった。

春とは言え、雪国の朝はまだまだ寒い。

その朝も早くから城内では支度に忙しかった。

また戦か…遠征を言い出したのは他ならぬ私自身だったけれど、

気分はまだ高揚しているものの、正直もう疲れた。

戦よりも自分自身に疲れてしまった。


気分の良い時には戦だ。

そういう時は自分に絶対の自信があるし、実際神懸かったように戦える。

調子づいて安請け合いもしてしまう。

だがそれも長くは続かず、必ず気分が落ち込んでしまう。

城の敷地内に立てたお堂に引きこもり、気分の良かった頃の自身を振り

返っては恥じた。


宗教に心のよりどころを求めても、少しも心静かにはならぬ。

出家して念仏を唱えても、かえって迷いが深くなるばかりだった。

酒だけが心のささくれ立った自分を慰めてくれる。

自分を翻弄する心の波も、盃を傾けている時だけは不思議と凪いだ。

私にはもう酒しかなかった。


飲酒量は時の流れと共に増すばかりで、最近ではもう自分の手に負えな

くなっていた。

最初は晩酌程度だったのが、昼間も飲むようになり、

それが私の上になる者がいないのを良い事に、仕事の最中でも構わなく

なり、

会議中から合戦の陣中、しまいには馬での移動中でも飲んでいる始末

だった。

今朝も起き抜けに飲んでしまった。


時折大事な客と会う時や参詣の時など、どうしても飲めぬ時があるが、

そうなるともう大変で、手が震えて書状を書くどころか署名も出来ぬ、

皮膚の下を大量の細かい虫が這って蠢き出す有様だった。

それを抑えるためにまた飲む…。

酒、酒、酒、飲んで安らぎを得るつもりが、私の人生そのものが酒に飲

まれ溺れてしまった。


家臣もまた朝から酒臭いと思っている事だろう。

かつてはきれいに剃ってあった頭髪も髭も、今では伸び放題だったし、

もう何日も衣を替えていない、私は身なりを整える事もしなくなってい

た。

食事も喉を通らぬ、昔は肴ぐらいはつまんだものだったが、

それも欲しくなくなり、いわゆる普通の肴が梅干しになり、塩になり、

もう酒以外の何も欲しなくなった。


それでも出るものは出る。

厠に立つのも家臣の介添えが必要だった。

飲み過ぎで足腰が立たないだけでなく、私は足も悪かった。

戦場に出ても、もう馬に乗る事も出来なかった。

現地にある青竹を杖に、陣中に立って指揮が取れればまだ良い方だった。


家臣らに支えられて厠にようやくまたがる。

催しはしても、まともな食事を摂っていない身体では便も固い。

何度力んでもただ肛門付近につかえるだけだった。

いっそう力を込めてみると、鹿の糞のような細かい便がようやく申し訳

程度に出てきた。

だがくらりと目眩がし、ふわりと力が抜けてしまった。


それからは長い事夢を見ていた。

時折家臣らの声が聞こえた。

飲み過ぎだの、跡取りもまだ決めていないだの。

意識がないので聞こえないと思ったのだろう、私が倒れた事に安堵する

声もあった。

家臣らや領民、近隣の国にとって、私はさぞ迷惑な領主だった事だろう。

私自身が一番にわかっている。

私もそんな私に振り回されて迷惑千万だ。


…こんな私なんてもう嫌だ。

尻をむき出しにしたまま、肛門に便をつけたまま倒れるのも無様だが、

それ以上に今までの人生そのものが、生きている事そのものが無様の極

みだ。

身体はもう動かぬ、涙も出ぬ。

私が私自身から解放される時は死のみ、死しても地獄あるのみ。

ならばこのまま眠りにつきたい…二度と醒める事のない。



しかし、眠りは眠りでしかなかった。

眠りはいつか醒めるもの、私はふっと気が付いて目を開いた。


「えっ…」


目の前に春日山城の、毘沙門堂の、天井はなかった。

濁った青空と、石造りのきっかりと四角い、無数の窓にぎやまんのはめ

込まれた、

恐ろしく高層の建造物が私の周りをとりまいていた。


「気が付いたか」


南蛮人のようななりの男たちが、私の顔を覗き込んでいた。


「病院だ、車を回して来い」


私は男たちに連れられ、車の四つ付いた金属製の箱に押し込まれた。

内部には背もたれが設けられてあり、全体に綿が入っていて柔らかだっ

た。

…快適だ、そして何よりこの車という箱は、馬よりはるかに速く移動出

来るのだ。

あまりの速さに景色も流れる色となり、細かく観察する事は出来なかっ

た。


半刻もしないうち、病院なる白い城に到着すると、

男たちはやはり南蛮風の白い着物姿の男たちに、よろしくと私を引き渡

した。

私は白い着物の男たちに寝台に縛り付けられた。

彼らの手早さに、私は何の抵抗も出来なかった。


「…坊主なのか? その割りにはずいぶんと汚いな」

「えらい酒臭いな、アル中で行き倒れたのか?」

「名前どうする?」

「こないだ上杉さん亡くなって空いたから、上杉さんでいいんじゃね?」

「そうだな、ちょうどアル中の坊主だしな」


男たちは私を観察しながら、あれこれ話をしていた。

それから彼らの中で一番偉いと思われる大男が、私に話しかけた。


「おい、今日からお前は『上杉謙信』という名前だ」


彼は私に「上杉謙信」と命名した。


「えっ…上杉? 謙信?」

「事情はわからんがお前行き倒れだろ、そういうやつは元の名前を名乗

りたがらない。

うちで新しく命名して保護している。代金は福祉の金から引かせてもら

うが…。

まあ細かい事は気にするな、俺らにまかせてくれればいい」

「あ…さようでござりまするか、それは…かたじけのう存じまする」


男たちは私の言葉づかいに、「武士かよ」とどっと笑った。

それから男たちは良く眠れるからと、注射なる管状の針のついた器具で、

水薬を直接身体に注入してくれ、またしばらく眠りについた。

目を覚ますと介護人が部屋にやって来て、拘束を解いてくれた。


「上杉さんに書いていただきたい書類がいくつかあります」


別の部屋で私は役所から来たと言う係の者に教わり、

まだぼんやりする頭のまま、書類を何通か書かされた。

入院の手続き、名前と住所の手続き、福祉の申し込みなど…。

書き終えると、係員は私に告げた。


「これで正式にあなたの氏名は『上杉謙信』、住所はこの病院です」

「はい…」


上杉謙信…なんと奇妙な巡り合わせな事よ。

せっかく別の世に来たと言うのに、この名前か…。

私はがっくりとうなだれた。



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