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08「銀色の月」

 実際問題、この村の被害は目を覆うばかりに甚大だった。


 クマの襲撃と同時に起こった昼餉の失火は村落における家屋の四〇パーセントを燃やし尽くしていた。


 爪と牙による死者よりも火に巻かれて窒息した人間のほうが多いのだ。


 騎士たちの必死の救助でなんとか掘り起こされた村人の死骸が、漁港に並べられた魚のごとくあちこちへ無造作に並べられていた。


 種族はおろか性別の判断もできないほど黒焦げになっている。家族の無残過ぎる死に打ちひしがれた啜り泣きがあちこちで尾を引いて流れていた。


(耐えるの。耐えるのですよ、アリエル)


 アリエルはともすれば込み上げてくる吐き気をこらえながら馬上で平静を努めて保った。


 彼女は、領主の娘で父君の代理なのだ。


 たださえ女だてらにと目の仇にされている上、ここで弱いところを見せようものなら騎士団の統制は瓦解してしまうだろう。


「う、おええっ。えううっ」


 傍らを振り返れば意気揚々と案内を買って出たギルベールは馬から降りると、四つん這いになって雪の上をせっせと汚していた。彼女は目を三角にして殿方に反抗心を剥き出しにしているものの、本質的には籠の小鳥に毎朝話しかけるような心根のやさしい箱入り娘なのである。


 アリエルはこのときばかりは、思ったとおりになんでも行動してしまう直結的思考の彼女がうらやましかった。


 戦争難民を主体とするはぐれ者の集まりであった亜人村はこういった命に直結する情報からもある意味意図的に除外されていた部分に悲劇があった。






 ――空が、おかしな具合だ。


 権左は手製の弓を持ったまま、ひとり峻険な急坂に身をひそめ空を仰いでいた。


 この日権左は単独で山に入っていた。


 頼りになる巨漢の相棒であるロボは連日の狩りにおける強行軍で無理をし過ぎ腰をやられてしまい、当分の間は「無念の欠場……」であった。


 日を追うごとに山塊を覆う雪は深みを増しあらゆる存在を拒絶するかに見えたが、老練なマタギの目を凝らせばあちこちに隠れ住む山獣たちの息遣いはたちどころに知ることができた。


 この日は朝から権左は一匹のアオシン――カモシカを追っていた。


 無論、本邦でいう純正のニホンカモシカではないものの、つい先日一頭仕留めた際に、その毛皮、その肉が酷く上質であることは確認済みであった。


 ニホンカモシカは大正十四年(一九二五年)に禁猟となっていたが、もちろん権左が猟を行っていた明治中期においては日本各地で盛んに捕らえられ、毛皮の良質さと肉の圧倒的な美味さでマタギから愛好されていた。


 ほとんど絶壁に近い急峻な岩棚に権左がカモシカを追いつめていたときに異変は起きた。


 雪もつかない絶壁に登りつめようとラッセルを続けていると、かすかに呻くような声を聴いた。


 長時間人の気配のない山に入っているとマタギはかすかに持っていた里人の感覚からは隔絶した超感覚の域に達することがままあった。


 ――今、確かに人の声がした。


 ここひと月ほどこのあたりの山々は歩き回っているが、故郷の秋田ほど習熟しているとはいい難い。


 つまりは、はじめて権左がこの地にやって来た日に出会ったクワツキ――妖怪染みた魔獣が数多くいる可能性も捨てきれない。


 腰の帯革に差していた山刀をいつでも抜けるように準備すると、いつでも攻撃に移れるよう弓に矢をつがえた。


 当初は銃器がなければ猟などはできないと思い込んでいたのだが、弓と山刀だけになってしまえば意外とやれるのだと自信を持ちはじめていたので恐怖心はそれほど湧き上がらなかった。


 凍てついた風を注意深く探っていると、わずかに離れた木々のそばからかすかな血臭が漂って来る。


 権左は性根を据えると雪を押し分けながらその方向へと進んでいった。


「なにが、あった」


 ――その男はどう見ても死んでいるように思えた。


 雪に塗れ、犬の毛皮を背負っている髭だらけの男は、髪が黄色く肌は雪焼けで浅黒かった。


 恐らくは近在の猟師なのであろうが、男は黒い雨に打たれたかのように全身血だらけになって倒れていた。


 どう見ても獣にやられた傷だった。男の頭部は頭髪を皮ごと無理やり引き裂いたように半ば剥がれかかり、胸や肩には爪で深々と抉られ多量の出血が見られた。


 これほどまでに手負うた猟師を見たのは権左も山でははじめてだった。


(クマ、だろうか。それにしては酷すぎる。砲で撃たれたみたいだ)


 恐らく最後の力を振り絞ってここまで逃げおおせたのだろう。


 なんとか雪の中から抱き起こすと、男の身体は周囲の雪よりも冷たく固い感触を伝えてきた。


「に、げ……ろ」


 男は死人のような唇を震わせかすかに言葉を紡いだ。


「逃げる? いったいおまえはなににやられたってんだ」


「ぎん……のつきが……やってく……る」


 最後の部分は掠れて判別しにくかったが、なんとかその遺言が「銀の月」を伝えようとしていることは理解できた。


「銀の月だと? それだけじゃちっともわからねぇ。オイ、気をしっかり持てッ。なんとか里におろしてやるから、くたばんじゃねェぞ」


「つきを……うかべた……くろい……かいぶつ……」


 男はそれだけいうと間もなく完全に生命活動を停止し、ものいわぬ骸と化した。


 年の頃は四十代だろうか。


 ロボと変わらないくらいの大柄で精力のありそうな男だった。


 権左は男を雪の上に寝かせると、胴体に刻まれた爪痕から彼を襲ったものが間違いなくクマであることを確信していた。


 それも途方もない大物だ。爪の大きさから予測すれば、かつて権左が北海道遠征で討ち取ったヒグマよりも遥かに巨大であることがわかった。


 どちらにせよ、これほどの強敵が山を闊歩し人を襲っているというのならば「アナモタズ」に間違いなかった。


 アナモタズとはなんらかの理由で冬眠失敗し山野を彷徨するクマのことを意味する。彼らは常に情緒不安定でエサの少ない山に留まることができず、里に下りては人に仇なす。


 また、男の左腕がつけ根からもぎ取られるように貪られていることから、クマは人の肉の美味さを知っている確率が非常に高い。


 人肉の美味さを知ったクマは生涯決して忘れることはなく、抗う術のない村人たちを容易に襲いうる可能性があることを思い、権左は雷撃に打たれたかのように顔をしかめた。


 クマによる食害はこういったことから起こるものである。このような怪物が山にいるとわかった以上権左は山の掟としてかのクマを駆除しなければならなくなった。


 ロボの助成が難しいのであれば、今回だけは鉄砲を使って確実にこの害獣を仕留めなければならない。


 もはやカモシカ狩りがどうこうという話ではない。


(早く村に戻って警戒を呼びかけないと、なにが起こっても不思議じゃねぇ)


 男は不憫に思うがこの場に置き去りにするしかない。


 そう結論づけた権左は鹿のような身軽な動きで雪の中を猛然とくだってゆく。


 村に慣れた権左であったが不特定多数の顔など思い浮かばない。彼の心にあるのはリュチカのふんわりとしたやさしい笑顔だった。


 今朝も、未明過ぎに腹が減るだろうと昼飯に持たせてくれたパンは今こうして懐の中で抱えているが、とうに石ころのごとくカチカチに凍ってしまった。


 彼女はこの凍てついた雪の寒さも山のこともわからないのだ。だからといって権左はリュチカのやさしい心根に胸をあたたかくこそすれ、物知らずの娘であるとマイナスに見ることはただのひとかけらもなかった。


 リュチカが自分のことを心配するときの仕草はいつか少年であった時代に母が見せたものとまったく同じだった。


 本来マタギは山に入る前に徹底的に掟を守る。


 掟は多岐に渡って各種あるが、もっとも忌むべきものとされるのは女性との接触だった。


 これは山の神は女性であるといういい伝えがあり、夫婦であっても猟に入る前の期間は接触を徹底的にさけた。山の神は嫉妬深いのだ。


 だが、権左にとってリュチカは掟以上の女神であった。


 ここが故郷の山ならば遠慮もするが、基本的に権左は山に入って獲物がとれない場合はそのマタギの腕が悪いだけだと思っている。


 不猟の責任は本人が負うべきであり、精神的に権左は当世マタギに近いものだった。


(まぁ、ロボ爺は自分のことくらいはなんとかするだろうが……とにかくリュチカさんが心配だ)


 男が今際の際に残した「銀の月」という謎の言葉も気になった。


 斜面をすべるように転がる権左の頭の中にはすでにリュチカのことで一杯だった。






 暴風のような災いが飛び込んで来たのは権左が出かけて数時間後の昼どきだった。


 リュチカはその少し前、家事を大方済ませると寝入っているロボの様子を見ながら心配げに形のよいまつ毛を悲しそうに伏せていた。


「お爺さま。お昼ご飯はなにに致しましょうか。精のつくものがお望みですか?」


「姫……あまりこの老骨をイジメんでくださいませ。それに誰もいないときは、いつもどおり爺と呼んでくだされと、いつもいっておりますでしょうに」


 パチパチと暖炉の赤い火の粉がはじける屋内でロボは床板の上に敷いた毛布で仰向けになるながら情けない声できゅーんと鳴いた。


「もう、未だにそのようなことばかり申して。一族が滅んでしまった今は姫もなにもないでしょうに。それに、わたしたちはこの村では歴とした家族なのですから」


 権左が見抜いていたとおり、ロボとリュチカは血を分けた実の祖父と孫娘といった関係ではなかった。

 他族との紛争で敗れたサロスウルフ族の将軍と最後に残った王族の姫君。


 幾つもの国境線を超えてたどり着いた北の果ては、ふたりに干渉しない代わり、なんの支えもなかった。


 ふたりはありうるかもしれない追っ手を危惧し、このような辺境の村でも出自を騙って息をひそめるようにして暮らしていた。


「だいたいこのあたりでは本名を名乗ったとしても、誰もわたしたちのことなど気に留めませぬ。ロボも剣を棄てわたしとともに市井で生きると誓ってくれたではありませぬか」


「ですが、一族百二十万を従えるサロスウルフの姫がそのように水仕事を自らなさるとは。儂の孫娘たちが生きておれば、少なくともそのようなことはさせなんだと思うと、つい」


「ロボが孫たちを失ったのはすべてわたしたち王族が至らなかったため。その代わりにもなりませぬが、わたしはこの先一生あなたの孫として仕えるつもりでおりますゆえ。さ、今からうんと精のつくものをたっぷり作りますゆえ、爺も早く腰を治して床上げしなくてはなりませぬ」


「姫、かようなお言葉、この老骨にはもったいのうて、もったいのうて……あづづっ!」


「ああっ。だから、無理に起きてはなりませぬといっていますのに」


「む、むむっ。こういうときにゴンザめがおりますれば、使い倒してやるのですが」


「め。ロボ、そのようなことをいってはいけません。ゴンザさまはわたしたちや村のために一生懸命日々頑張っておられるのです。かようなことを申せば口が腐りますよ」


「は。これは、失言を」


(よかった。ゴンザさまの話をしたら元気を出してくれた)


 かつては十万騎の兵を率いた名高い将も今では村の好々爺が似合うようになっていた。


 リュチカは本当のことをいえば、幼い頃から自分の守り役であった老将から戦場の臭気が薄れてゆくことをよろこびさえすれ悲しんでなどはいなかった。


 けれど、あの青年はかつえ戦場を疾駆していたロボと同じような殺気と血に塗れた空気を色濃く漂わせていた。


 はじめて出会ったとき、彼が全身に負っていた傷は戦場でどのような戦い方をしていたか想像するのも恐ろしいほど苛烈なものであった。


 権左の傷口を縫い、包帯を巻いたロボは戦場に人生を捧げてきた男であった。が、その彼をして絶句させるほどの傷跡たるやリュチカの想像を遥かに超えた激戦を戦い抜いたものと思って間違いない。


 リュチカの見る権左という男は決して快活で人好きのする人間ではなかった。


 しかしリュチカは、時折笑いすら浮かべるように馴染んだ青年がかすかに見せる陰を見せるたび、胸の奥が激しく疼くようになっていた。


 権左はリュチカたちに理解できないような話をときどきするが、そのときの過去を懐かしむような表情を目にするたび、どうしようもない焦燥感を覚えることが多々あった。


 マタギという職種が正確にはどのようなものかは理解していないが、山へ向かうときの権左の目は確かに生き生きとしており、その瞬間だけはどこかリュチカの心は救われたような気分になるのだった。


 ひとつだけリュチカの胸に刺す小さな棘があるとするならば――。


 それは彼が雑嚢の奥に仕舞っていたロケットに挟まれた、ひとりの肖像画であった。


 いかなる技法を施して描かれたものであるかはリュチカにとってわからないが、その少女の凛とした美貌を思い出すたびに、リュチカの胸は黒く澱む。


(だめだめ。こんなこと考えている暇があったら、早くロボに美味しい料理を作ってあげないと)


 リュチカが雑念を振り切るように戸外に出て、村内で唯一凍りついていない井戸に向かう際に、太く幾重にも連なって続く禍々しい馬蹄の響きを聴覚が捉えた。


 それが慎ましやかに暮らしていた亜人村を襲う最初の悲劇であった。




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