23「雪解けの日」
ぽかぽかとやわらかな日差しが降りそそぐ軒下で、権左は手製の長椅子に腰かけ小銃の手入れをのんびりと行っていた。
あああ、とあくびが漏れる。くすくす笑う声に振り向くとトレイにカップを乗せたリュチカが上機嫌な様子で立っていた。
「ゴンザさま、すっごく眠たそう。一息入れてはいかがでしょうか」
リュチカはくりくりした瞳を細めながら、ふさふさしたしっぽを左右にゆるく振っていた。
最初は強烈な違和感を覚えた少女の仕草もすでに慣れた。
むしろ頭にちょこんと生えた犬耳と連動しているので奇妙な愛らしさすら感じていた。
「あ、それ。またおっきなあくびしてます」
「ちぇ。笑わないでくれよ。仕方ないだろう、やることがないんだからさ」
権左が不満そうに口を尖らすとリュチカはキッと目を吊り上げて怖い顔をした。
「また! そういって一昨日みたく黙って猟に行くおつもりなんでしょうが、そうは問屋が卸しません。まだ傷が完全に治っていないのですから、山に入るなんてぜーったいダメですよ!」
「……はい」
銀月やオオカミたちの死闘から三ヶ月。
権左は半ば死にかけた状態であったがなんとか九死に一生を得ていた。左肩の骨は砕け脇腹は腸が露出し、細かな傷は上げれば数限りない。
いっときは呼吸までも停止した重症であったがリュチカたちの懸命な看護もあり驚くことに一月後には自分で歩けるようになるまで回復していたのであった。ほとんどバケモノ染みた回復力である。
幾多の騎士を殺害し、周辺の村々を恐怖に陥れた人喰いグマを単騎で討ったとされた権左の名は瞬く間に国中に響き渡った。
一時は爵位まで検討されたのであったが権左の頑なな固辞により話は立ち消えとなった。
それではとばかり非公式な形で領主から特使を派遣され莫大な褒賞を下賜された権左はすでに亜人村どころか、周辺百里四方その名を知らぬものがない豪傑として人物像がひとり歩きをしはじめるほどになり、本人からいわせれば「困惑以外のなにものでもない……」という次第である。
「でもよかったです」
「なにがだい、リュチカさん」
「ゴンザさま。きっとこの村から出て行ってしまわれると思いましたから」
権左は長椅子にトレイを置き身をそっと寄せてつぶやくリュチカの言葉に目を伏せた。
「リュチカさん。俺はね、あんたたちに返しても返しきれない恩がたっぷりあるんだ。勝手気儘に出てゆくなんてそんな恩知らずなことするはずがないよ」
「本当、ですか……?」
そろそろと上目遣いで訊ねて来るリュチカのふわふわした髪を撫でながら権左は目を細めた。
「にしても。凄かったな。リュチカさん」
「えっと……? なんのお話ですか?」
「銀月だよ。まさかリュチカさんがあんなに動けるとは思ってもみなかった。案外おてんばなんだな」
リュチカはもうっと手を上げて権左をぶつ真似をすると、ややためらってかあたりを見回してぼふっと権左の胸に飛び込んで来た。
「怖かったですよ。今だって自分があんなことできたなんて信じられないくらい。でも、ゴンザさまのためならリュチカはどんなことだってできます。してみせますよ。だって、できちゃうんですから……」
リュチカはそういうと顔を上げそっと権左の胸から離れた。
隣り合って座ると背中を彼女のしっぽがはたはたと叩いた。権左の顔がわずかにゆるむ。
「俺はさ。許されるなら。ずっとこの村で暮らしたい。ここならきっと、静かに暮らしていけると思うから」
リュチカが大きな瞳を見開きながら目の縁に涙を盛り上がらせた。
黙ったまま椅子のうしろで尾を振っている彼女がいじらしくなって、権左は勇気を出してその小さな手をそっと取った。
「ゴンザさま」
自分からこんなことをするのははじめてだった。柄にもなく権左は顔が熱くなるのを感じ左手で軍帽の庇を下げた。
そっと向き合ったまま顔を近づける。リュチカが静かに目を閉じた。
なんともいえない空気が醸成されふたりの距離が徐々に近づいてきたとき、村の狭い道を鋭い馬蹄の音が響き渡った。
「ゴンザさま。今日は随分とよい日和ですね」
白いローブに身を包んだアリエルが美麗な長剣を腰に吊って馬を止めると同時にひらりと飛び降りずかずかと大股で近づいて来る。
「また来た」
リュチカがうんざりしたような声を出した。
「怪我の具合はどうでしょうか。今日は傷によく効く果物を持参いたしました」
エルフのアリエルは弾けんばかりの笑顔で長耳を震わせ権左の顔を覗き込もうと身体を寄せてくるがリュチカが機敏にそれを制した。
「あのですね。アリエルさま。そう日に何度も何度も馬を村内で駆けさせられてはたまったものではありません。危ないといつもいっていますのにっ」
「ん。リュチカか。以後気をつける。それよりもですね、ゴンザさま。私が手に入れたこの西方の果実はとっても甘みが爽やかで――」
アリエルにとってはリュチカの言葉など馬耳東風だ。初見のときの威厳はどこへやら、こうして見ればどこにでもいる娘にしか過ぎないはしゃぎようだ。
「だーかーら、ゴンザさまのお食事はわたしが用意しますゆえ、余計なものを勝手に与えないでくださいといっているんですっ」
「は? リュチカ。そのいい方ではまるで私が彼の身体に悪いものを食べさせようとしているみたいではないですか」
どうにも理解の及ぶところではないのだが、権左は件の一件以来アリエルに気に入られて毎日のように訪問を受ける関係に陥っていた。
リュチカもはじめはアリエルの訪問が重傷を負った権左に対する貴族としての思いやりと受け止めていたようであった。
しかしその内実がアリエルの個人的感情によるものだとわかってからは妙に張り合うようになり、以後、今目の前で起こっているようなやり取りは村人も気にしないほど幾度も繰り返される恒例行事となっていた。
「なにを笑っているのですか」
「笑いごとじゃありませんからねっ」
「いや、すまない。つい、な」
権左は破顔すると若干痛む左肩の傷口に手をやりながら、オロオロと縋りついて来るふたりの少女を交互に見やってこんな人生も悪くないと思った。