22「最期の一撃」
潰えたはずの命の振り子が再び揺れを取り戻したのは権左があたたかなものをその頬に感じた瞬間だった。
ゴンザ――ゴンザ――。
誰かが俺の名を呼んでいる。
二〇三高地における激闘の記憶にたゆたいながら、消えかけたはずの意識が身体の揺れとともにゆっくりと浮上していった。
「ゴンザさまっ」
その呼びかけに目を開ける。
そこには銀と金とを取り合わせたふたりの少女が目に涙を浮かべながら権左を覗き込むようにして顔を近づけていた。
「こ、こ……は……?」
喉が渇きと血と寒さで凍りついていたのか激しく咳き込みがはじまった。むせればむせるほど目の前にいたリュチカとアリエルのふたりがますます顔を歪めボロボロと涙を滂沱のごとく流れ落とす。
「心配したんですよぉ。もう、ダメかと思って……」
リュチカはひんひんと泣きながら権左の袖口をギュッと握っていた。
「あれほどの大口を叩いておきながら、なんというていたらくですか。あなたという人は」
アリエルは雪の上にぺたんと座り込みながら目頭を指先でしきりにこすっている。
ふと、ほのかな灯りに視線を向けるとそこには額から丸い提灯のようなものを吊るしたホタルタヌキのつがいが心配そうに権左の様子を窺っていた。
「あ、ゴンザさま。彼らがわたしたちをここまで案内してくれたんですよ」
リュチカがにこりと笑ってふりふりしっぽを振っているホタルタヌキたちを指差した。
「そうか。あんときのパン屑の礼か……」
異国の畜生も案外義理堅いところがある。
そうでなければ権左はリュチカたちに見つけられることなくこの場で眠り込んだまま凍死していただろうし、とんだ命の恩人というわけだった。
「感謝するぞ。おまえたち」
権左がヒビ割れ切った唇でお礼をいうとホタルタヌキたちは「くぅーん」とかわいらしく鳴いて、周りをぐるぐると駆け回りはじめた。
「ゴンザさま。ここまで来る途中でこの目にしました。まさか単騎であの銀月を討ち取ってしまわれるとは……! あなたの武功は古今東西例を見ない英雄の偉業です。これならば私もあなたのことを父に堂々と紹介することができます」
アリエルは権左の無事だけではなくまぶしいものを見るような歓喜と憧憬に満ちた瞳で真っ直ぐ見つめて来る。
「やめてくれ。英雄なんてものは、もうたくさんだよ……」
軍帽の庇を下げてアリエルの視線から逃げるようにうつむいた。それをどう勘違いしたのかアリエルは「勇敢だけではなくなんという謙虚さ」と瞳をハートマークにしてひとり盛り上がっていた。
実際問題、権左の中には英雄や武功といったものは戦争の現実を知った今となっては酷く色褪せていた。
「なぜですかっ。英雄は英雄ですよっ。私は真実を述べていますのに……ゴンザさま? なにを笑っているのですか」
知らず、権左は笑いを噛み殺してうつむいていた。
絶対にさけうることができなかったはずの死がリュチカとアリエルの思いがけない登場によって遠のいた。
「ふふん。ゴンザさまはあなたの滑稽さ加減をお笑いになっているのですよ」
リュチカは権左のそばに侍るとちょっと意地悪気な顔でアリエルに向かって舌をべぇと伸ばしてみせた。
「あのですねぇ……」
「ゴンザさま。これを」
「これは」
権左はリュチカに手渡された三十年式歩兵小銃のズシリとした重さに目を細めた。
「銀月のそばに落ちていたのです。この杖、ゴンザさまの大切なものでしょう」
完全になくしたと思い込んでいた愛銃は今再びこの手に戻ったのだ。
奇妙な感覚に囚われながら呆然としていると、ふふ、と笑っていたリュチカが表情を歪めた。
「どうした?」
「ゴンザさま。この臭い――」
サロスウルフ族という亜人特有の人間などよりもはるかにすぐれた嗅覚を持つリュチカであったからこそ気づけたのだろうか。
一方、長耳を持つエルフであるアリエルも奇妙にあたりの闇を見回したかと思うと、突如として顔を強張らせて長剣を握り立ち上がった。
「音! ゴンザさま。お気をつけあれ。どうやら私たちの危機は終わっていないらしい」
多量の出血と怪我で五感が鈍っていたのだろうか。
権左はふたりに遅れて急激に近づく強烈な臭気と雪を荒らす音をようやく捉えて両眼を見開いた。
風にまじって強烈な獣臭が吹き荒れるようにあたりへと立ち込めていた。
わずかだった足音はザクザクと方向から距離までわかるほど巨大なものになっていた。
ホタルタヌキは野生の本能に従ってとうの昔に風を喰らって退散した。
(が、俺たちは逃げることはできない。こうなったら最後まで戦うだけだ)
権左はアリエルに肩を借りると見通しのよい斜面まで這いずるように移動した。
リュチカは怯えて動かなくなるかと思いきや気丈にも両手を左右に大きく広げ権左をかばうように前へ出ていた。
挿弾クリップを弾倉に押し込んで片膝を突き狙いを定めた。
怪物は雪煙を巻き上げ樹木をバリバリとへし折りながら権左たちの前へと姿を現した。
「コイツは――」
間違えようもない銀月だった。
権左は一瞬激しく混乱した。
自分は確かに熊槍をもってこの怪物の心臓を破壊した。
が、再び目の前に現れた銀月は喉からふしゅるると奇妙な音のする呼気を吐き出しながら、両手をだらんと垂れ下げ一向に襲ってくる気配がなかった。
互いの距離は二十メートルに満たない。
怪物グマの身体能力ならば一瞬で間合いを詰めることも不可能ではなかった。
いや――。
元より迷う必要はなかった。
敵がどのような理由であれ動かないのであればマタギにとっては的でしかなかった。
心臓は破壊しきっている。ならば狙う場所は脳以外にないだろう。
「もう、いい加減くたばれよっ!」
権左はボルトハンドルを操作すると月明かりに浮かぶ銀月のトレードマークである額の月へと弾丸を続けざま三発叩き込んだ。
ぼひゅぼひゅっ
と肉が砕けてクマの脳髄が飛散する。
が、奇妙なことに銀月は手を力なく下げたまま右に左にとゆっくり揺れているだけだ。
まるで痛みという概念をなくしてしまったかのような動きに大きな疑念が生じた。
なんで、死なないんだ――?
すでに銀月の頭の右半分は欠損して生物ならば動けない状態になっている。
だというのに、かの怪物は攻撃をはしてこないものの、瞳を赤く爛々と光らせ不気味に佇立していた。
「ウィスプ――死霊ですよ」
「は?」
「見てくださいあれを。あの怪物のまわりを」
アリエルに指摘されて指差しした方向をジッと見た。
立ったまま動かない銀月の身体中に青白い光る人魂のようなものがぐるぐると螺旋を描き飛びかっていた。
闇夜に光る巨獣からは生気がまるで感じられない。
冷静に権左が目を凝らすと巨熊の毛は剥製のように寝ていた。
つまりは死んでいる。
死んでいながらなお動き続けているのだ。
「銀月はあまりに人を殺め過ぎたのです。返り血と怨念とが身体に染みついて離れない。その身に陰気を浴び続けた結果でしょう。そこにつけ込まれたのです。この山に巣食う悪霊どもに身体と肉を乗っ取られているのです」
アリエルはふるふると唇を動かしながら恐怖に身を強張らせていた。
次の瞬間――。
「跳ぶぞ、リュチカさんっ!」
「え、きゃあっ」
なんの前触れもなく銀月は身を低くすると襲いかかって来た。
権左は自分の身体のどこにそんな力が残っていたのかはわからないが、反射的にリュチカとアリエルを両脇に抱えると横っ飛びに飛び退いた。
(コイツ、思った以上に遅くなっている?)
銀月のスピードは水準以上であるが、あらゆる能力がガクンと下がっていた。
そのおかげもあってか黒クマの突進をさけることは難しくなかった。
明後日の方向に突っ込んでゆき樹木に頭をぶつけ停止する。権左はその隙を見逃さずふたりを立たせると駆けた。
銀月はゆっくりと向き直ると追撃にかかった。
振り返らずとも後方に迫っていることは理解できた。
逃げた権左たちを狙って半壊した顎を限界まで開く。
なにをするつもりなんだ――?
権左の疑問に答えるように、ぱかりと開いた口内から青黒い炎を放射した。
ごおおっ
と燃え盛る炎が雪に埋もれていた木々に燃え移ってあたりを真昼のように照らし出した。
地に積もった雪は邪悪な炎に焼かれると白煙を上げて蒸発しあたりに濛々と煙が立ち昇って霧と化した。
「走れ――! ここじゃ不利だ」
ゾンビグマとなり果てた銀月のスピードは前回の戦いよりも比べものにならにほど鈍重だった。
木々を縫って駆けながら権左は振り返りざまに銃を撃ち続けた。
弾丸は狙い違わず“銀月だったもの”の頭部にヒットし着実に頭そのもののフォルムを削ぎ取っていくのだが、死霊に身体を支配されたゾンビグマはなんの痛痒も感じぬようにのったりとしたスピードで追いかけて来る。
「あっ」
アリエルが手にしていた長剣を木の枝に引っかけ取り落とす。リュチカは素早くそれを拾い上げるとウインクをした。
駆けながら喋るのはやたらと息が切れる。半死半生である権左ははじめこそは気力でもっていたが、次第にゾンビグマに距離を詰められはじめて焦燥に駆られた。
「厄介だな。死んでいるのに生きているってのは」
「ゴンザさま。あのクマには通常攻撃は微塵も効きません」
「じゃあどうしろっていうんだよ。こうなったらバラバラに斬り刻んでやるか!」
「それは得策であるとはいえません。時間さえあれば、私にも策があるのですが」
「どんな――?」
「それをお貸しください。ゴンザさまの武器でございますね。それに私のありったけの魔力を込めてみます」
アリエルが指差したのは権左が左手で握っていた銃弾補充用の挿弾子だった。
リュチカやロボからこの世界に魔術という強力なまじないがあることを聞いてはいた。
この状況で彼女がデマカセをいうとは思えない。
なによりほかに方法はないのだ。
「そのまじないが終わるまで時間を稼げばいいんだなっ!」
挿弾子を丸ごと手渡すとアリエルは弾丸をひとつだけ抜き出した。
なるほど。
込められる総量は、ただの一発だけだということか。
「お任せください。私は騎士でもあり敬虔なロムレス教徒ですから。神のご加護が守ってくださります」
頬を上気させたアリエルが自信に満ちた表情で口角を上げた。
ならば権左がやらなければならないことは決まり切っている。
握った銃剣。
このつたない武器と力でどうにかあのバケモノグマを食い止めねばなるまい。
無理やり立ち止まって反転したところで腹に激痛が走った。
どうやら今まで居眠りを決め込んでいたら腹の傷が開いたらしい。
意に反して呻き声が漏れた。
視界が真っ赤に灼け落ち下半身からするすると力が抜けてゆく。股下あたりがぬるかった。ふさがったはずの傷口から血が漏れ出しているのだ。
「ゴンザさまっ。お腹から血が!」
「俺のことはどうでもいい。おまえはまじないに集中しろ」
「ゴンザさま。わたしに任せてくださいな」
「リュチカさん――?」
今まで黙りこくっていたリュチカがにいっと口元をゆるめ手にした剣をサッと振るった。
「ダ、ダメだ。アンタに戦わせるわけには――」
「適材適所というものがありますの。わたしはあの怪物の足止めをする。アリエルさまは魔力を込める。ゴンザさまはあの怪物を斃す。お願いします。どうか、わたしを信じて」
貴い決意を含んだ言葉だった。
権左はくらむような視界の中でリュチカの小柄な身体が清冽なまでに美しいと感じていた。
「頼む」
途方もなくうれしそうに笑みを浮かべるとリュチカはくるりと反転して追いかけて来る魔獣へと打ちかかっていった。
同じ獣亜人に属するウェアウルフのような膂力はサロスウルフにはない。
代わりといってはなんだが彼女たちにはそれを補って余りある敏捷性を生まれつき兼ね備えていた。
銀月は進行方向を遮る樹木を律儀にひとつずつ倒しながら進んでいる。
すでに思考する力は停止しており乗り移られた悪霊たちの指示によって単純な動きを取るようになっているらしい。
「あああっ」
リュチカは今までの淑やかなイメージを掻き消すような声で吠えた。不意を衝かれた権左の鼓膜が破れそうなほどの音量である。
当然これを至近距離でまともに喰らった銀月も注意を移さざるを得ない。
リュチカはすらと長剣を下段に構えたまま素早く銀月の周りをぐるぐると走り出した。
あの身体のどこから発しているかと思われるほど凶暴な声で吠え立てる。
銀月は周囲を駆け回るリュチカがよほど気になるのか立ち止まったまま前足を振るい、口から炎を吐きかけるがすべて空振りに終わった。
スピードが違い過ぎるのだ。リュチカは猟犬がマタギである主人が狙いを絞りやすいように銀月の注意を徹底的に自分に引きつけ果敢に挑み、ときには退いてその場に釘付けにした。
青白い炎がリュチカの身体をかすめて煙を上げさせるたびに、権左は心胆が強張って激しい動悸で身体が上下に揺れているように錯覚した。
アリエルは雪の上に跪くと天に祈りを捧げるように銃弾を捧げ持ちまじないの言葉を詠唱している。
リュチカと銀月の位置から権左たちは二十メートルほど離れている。
早く。
まだか早く。
気ばかりが急く。
リュチカは巨大な爪を打ち下ろす巨大グマをただひとりで迎え撃ち五分以上の戦いを繰り広げていた。
事実は違う。
圧倒的に力が違う二者が互いに牽制しつつ距離を取り合っているようであったが、前線に出れず、ただ待ち続けている権左にとっては非常に長く辛い時間だった。
「なりました」
来た。
待ちに待った瞬間がやって来たのだ。
アリエルから鈍色に輝く銃弾を受け取ると静かにそれを弾倉へと込めた。
長かった夜が明けはじめている。
まばらに立った雑木の向こう側には激しく立ち回るリュチカの姿と巨大な黒い塊が広大な白さの中で浮き上がっていた。
「狙ってください。赤い塊の中心。それがすべてです」
権左の目には見えなかったものがアリエルの念じるような言葉とともに炙り出されてゆく。
権左の殺気を感じ取ったのか銀月はリュチカを無視してこちらに向かって進んで来る。
距離が徐々に縮まって来る。
撃たない。
まだ、そのときまでは。
ボルトハンドルを操作して目を凝らした。
もう幾度繰り返しかたかわからない姿勢を取って狙いを定める。
激しく動き回っている銀月の身体の中心部にポッと赤黒い炎が灯っている。
引き金に指をかけ、世界の理がそう定まっていたかのように最後の一撃が放たれた。
山を穿つような発砲音が木霊した。
権左の立射に気づいた銀月が喉を最大限にまで押し広げ火炎放射を虚空に放った。
猛火は木立を焼き払うと凄まじい勢いで権左に向かって迫って来る。
魔力を纏った銃弾。
青白い炎をいともたやすく突っ切るとただ標的目がけて真っ直ぐに――。
アリエルがなにかを叫びながら雪の中に両膝を落とした。
凍てついた空気に反響音が長々と残った。
黒の塊の中央部を貫いた弾丸は込められた魔力と相乗効果を発揮して銀月の身体を粉々に打ち砕き赤い雨を白の世界に降りそそがせた。
それこそが人々を恐怖のうずに巻き込んだ悪魔の終焉だった。