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20「二〇三高地」

 明治三十七年、十一月三十日、払暁。


 日露戦争における旅順攻囲戦はいよいよ大詰めを迎えていた。


 凍りついた塹壕に身を潜めながら、秋田出身のマタギ雨竜権左衛門二等卒は大気を割って劈く砲声の音を静かに聞いていた。


 マタギという名は猟をするときに二股になった杖を持った歩いていたためについたとか、峰を股にかけて山野を彷徨したためついたなどさまざまだ。


 が、単純にクマやイノシシなど野のケモノを取って生活してきた猟師だと思えば間違いない。


 ――にしてもやかましい音だぜ。


 別名「汽車弾」と呼ばれていたロシア軍の砲声である。


 汽車が駅を煤煙と蒸気を吐き出し発進する際に轟かせる汽笛の様子に譬えられたものだ。


 人知を超えた速さと威力で将兵や軍馬を薙ぎ倒し、大地や岩を粉々に砕く悪夢のような飛来物を前に、常人ならば正気を保つことも難しい。


 だが、この男は少々様子が違った。


 権左衛門こと通称「熊撃ち権左」は、生半な胆の据わり方ではない。


 兵役に就く前から山野を巡って東北から北海道までありとあらゆる場所で日常的にクマと生死を争ってきた男だ。


 その胆の練り方は尋常一様ではない。


 死を覚悟していても物理的な轟音や衝撃に肉体というものは恐れを感じるはずのものであるが、権左は違った。


 鈍感などではない。正視に鈍感なのは剛のものであるとはいえない。人生に不可避な死を直視して、なおたじろがず現実を直視し腹を据えることができるものを真の勇士と呼べるのだ。


 権左は身長五尺七寸(約一七三センチ)体重十六貫(約六十キロ)と身体強健にして余裕の甲種合格である。


 軍帽の下の相貌は日に焼けて浅黒くはあるが、面長で鼻は高く切れ長の瞳はギラギラと獲物を前にした山中にいるがごとく激しい光に満ちていた。


 当年とって二十五歳。


 疲れを知らぬ年齢であり、身体中に小さな手傷を負うもののそれをまるで苦にしないタフさがあった。


(腹減ったな。ってそれはロスケの野郎どもも同じか。とっとと区切りをつけたいもんだ)


 権左は敵の銃弾で千切れた左の耳たぶをガジガジ掻きながら、ひゅんひゅんとすぐそばの塹壕に落ちた砲弾の切れ端に舌打ちをした。


 数日前に受けた傷だが、すでに肉が盛り上がりつつある異常な回復力だった。


 敵塁に迫るため塹壕を掘るときに使っていた鉄盾に、敵砲弾の破片が踊って甲高い音を立てる。


 破片といえど、人体を殺傷するには十二分な力を保持しているのである。


 つい先刻も、コイツをまともに喰らって頬をザックリ抉られた戦友を目にしていた。


 だが、銃弾の弾というのは戦場にいる限り気をつけようのないものだ。


 当たる当たらないは、まさに神のみぞ知るところといったところだ。


 すでに嫌というほど砲声は聞かされており、恐怖心はなかった。


 人間はどのような強烈な恐怖も時間が立てば神経が麻痺し、感覚は鈍麻する。


 友軍の二十八サンチ砲が明け方から絶え間なく敵陣地である二〇三高地のロシア軍要塞に降りそそいでいる。 


 雷鳴のごとく轟く砲声は力強くジグザグに掘った塹壕を進む戦友を励ましているが、敵の火力も相当なものだった。


 たかだが二等卒である権左の知るところではないが、日露の決戦において日本は最初から最後まで弾薬不足に悩まされた。


 味方の迫撃砲陣地から撃ち出される軽野砲弾である榴散弾は目的地上空で飛散するので、敵の塹壕や鉄条網を破壊できなかったのだ。


 自ずと砲弾は抑制され、乃木将軍率いる第三軍は目を覆うばかりの激しい出血を強いられた。


(が、そいつもここまでだ。今日こそは俺たちが二〇三高地を落としてやる)


 権左は生来肝が太いのか、硝煙と土煙が立ち昇る戦場においても、もっとも気になっていたのは朝方貪るようにして食った氷のように固まった握り飯のことだった。


 ロシア軍が誇るベトン(コンクリート)二十万樽で構築した不滅不朽と思われていた旅順も乃木希典大将率いる第三軍の苛烈極まりない強襲攻撃に晒され、今や息を引き取る前の死人の様相を呈していた。


 だが、落ちない。

 容易に落ちないのだ。


 傷つき痩せ衰えた第一師団に加えて大迫尚敏中将率いる虎の子の第七師団(権左所属)が投入されたのは、それだけ日本軍も追いつめられていた結果ではあった。


「オイ、雨竜。ぼやぼやしてたら、ひとつっきゃない命をむざむざ捨てることになる。気合入れてけよ」


 西島少尉が眼球を血走らせたまま、まるで地獄の鬼のような形相で叫んだ。


「小隊長どの。自分はサッサと突っ込んで、敵のトーチカからパンのひとつでも奪いたいであります」


 権左がとぼけた返事をすると、凝り固まっていたあたりの空気が本当にわずかであるが、ゆるんだような気がした。


「まったく。おまえってやつは当分死にそうにないな。その意気で、ロシア兵どもを打ち倒してやれ」


「は」


「そういえばおまえは猟師だったっという話だな。クマとロスケどっちが手強いのだ」


「どっちも同じクマであります。ただ、ケツが白いロスケはさばいても食えそうにありません」


 西島少尉は呆気にとられたような顔をすると、くつくつと声を上げてひとしきり笑い、権左の頭を軍帽ごと引っぱたいた。


「死ぬな――いいや、勝つんだ。儂たち第七師団が来たからにゃ、これ以上戦友たちを死なせない。勝って最後に笑うのは帝国陸軍だ。それを、世界に知らしめてやろうじゃないか」


 この時代、戦術において歩兵の損耗は計算のうちにあった。


 完成された塹壕は砲弾だけでは絶対に落とすことができない。


 後世、二〇三高地の被害の多さに、強襲攻撃を非難する論調は強い。


 しかしながら北方に迫っているロシア満州軍総司令官クロパトキン率いる大軍が続々と集結しつつある事実がある以上、第三軍を率いる乃木は悠長に旅順を包囲しじっくりと敵の疲弊を待つ作戦を取ることは不可能であった。


 その責めを負わされたのが歩兵であり「損耗」の一部として概念化された権左たちであったのは、どこの世界でも起きた小さな悲劇のひとつでしかなかった。


 権左たちは一発の砲弾での皆殺しをさけるため、緻密な作戦でジグザグに掘られた地隙を這うように進む。


 ゆく手にはロシア軍が丹精込めて作り上げた塹壕や鉄条網が広がっていた。


 鉄線と棒杭は無数に陣地を埋め尽くし、進むごとにそれらを破壊するのは文字通り山のような死体を積み上げねばならなかった。


 工兵の鉄鋏隊が一斉に群がって鉄線を切り、次いで鋸隊が棒杭を切り倒す。


 その間にもロシア軍のカタカタと鳴るマキシム機関砲は日本兵たちを紙切れのように滅多やたらに薙ぎ倒していった。


 ロシア軍のマキシム機関砲はイギリス・ヴィッカース社製のコピーである。


 初速588メートル、発射速度毎分500発を誇る悪魔の兵器は勇敢にも作業に没頭する工兵及び歩兵を無慈悲なまでにも薙ぎ倒してゆく。


「前へ」


 の前進命令が出るや権左たち歩兵は雄叫びを上げて堡塁に突っ込んでいった。


 ベトンで塗り固められた要塞へと権左は狙いをつけて、手にした三十年式歩兵銃を駆使し、わずかに顔を見せたロシア兵たちを矢継ぎ早に射殺してゆく。


 戦友たちは視界の端で巻き起こる銃弾の雨を浴びながら、紙人形のように容易く血飛沫を上げカーキ色の軍服を朱に染めて大地に伏してゆく。


 甲高くピュンピュンと地を疾る弾音は軍帽をかすめ後方の仲間たちを的確に射殺していった。


「クソッタレが。こんなとこでくたばってたまるかよ」


 権左は手榴弾を取り出すと山仕事で鍛えた肩を駆使して八十メートルからの距離にある敵堡塁へと投げ込んで見せた。


 凄まじい爆音と堡塁の破片と塵埃が濛々と立ち込める。


 駆ける。

 大地を蹴って駆けた。


 耳元でピューンピューンと甲高い音を残して敵弾が貫いてゆくが、かまけている暇はない。


「だああっ」


 激しく叫びながら敵塹壕に跳び入ると、驚愕を顔面に張りつかせたロシア兵を銃剣で貫いた。


 胸元に埋没した銃剣から真っ赤な血が噴き出して敵の軍服を黒く濡らしてゆく。


 素早く銃剣を引き抜くと、短剣を引き抜いて襲いかかって来たロシア兵の顔面を水平に斬り割った。


 ロシア兵は権左の知らぬ言語で叫ぶともんどりうって後方に倒れる。


 すかさず飛び乗って歩兵銃の銃床で顔面を滅多打ちにした。


 権左がロシア兵を打ち殺している間にも友軍の兵たちは塹壕に飛び込んで、残ったロシア兵たちとあちこちで白兵戦を繰り広げ出した。


 体格では屈強な北の白熊たちに遥かに劣る日本兵であったが、どこにそのような馬鹿力が残っているのか身長百八十を超える大男たちを土壁に押しつけ、銃剣で刺殺する姿は圧巻だった。


 ――死なねぇ。こんなとこでやられてたまるか、畜生が。


 権左の脳裏には高邁な理念も国家における忠義もない。あるのは、一人前の男として戦えない女子供に成り代わって悪鬼を討つという時代錯誤な義侠心だけだった。


 戦争などが面白いわけがない。


 ただ、ただ必死だった。


 ここで死なないのが運命であるならば、斃れた戦友に成り代わり向かい来る敵を根こそぎ殺しきるのが自分に託されたものであろう――。


 挿弾子と呼ばれる五発の弾丸が込められる挿弾クリップを小銃の弾倉に押し込む。このボルトアクション式五連発銃はロシア兵が使用するモシン・ナガン銃の7.62ミリ口径よりも小さな6.5ミリであったが、命中率は圧倒的によかった。


 権左の特技は銃の先端に付けた銃剣の刺殺ではなく、あくまでも猟で鍛えた人並み外れた視力と、獲物を確実に打ち抜くという神業的な射撃能力にあった。


 塹壕内の敵兵を残らず打ち倒すと腹這いになって射撃に専念した。


 ウラーと歓声を上げて突貫するロシア兵は、そばの同輩たちには豆粒のように見えただろうが、奇妙な冷静さを取り戻していた権左に取ってみれば打ちやすい「手ごろな獲物」以外のなにものでもなかった。


 一発。


 額を撃ち抜かれた敵兵が銃を投げ出して吹っ飛んだ。


 二発。


 胸を撃ち抜かれた敵兵がつんのめって砲弾の土煙に

 巻き込まれる。


 三発。


 姿が見えなくても、次の行動は予測できるのではずしようがない。


 脳天を撃ち抜かれた敵兵が横倒しになった。


 四発。


 狙い違わず再び眉間を撃ち抜いた。


 五発。


 心臓を撃ち抜くと敵兵は数歩走って両手を突き出し斜面を転がって視界から消えた。


 弾倉が空になった。


 素早く訓練通り挿弾子を操作して弾丸を込めて狙いをつけた。


 ――これだけ近けりゃはずしようがないぜ。


 ロシア軍の使う小銃のほうが弾の口径は大きく殺傷力は高かったが、日本軍の使う小さな口径の三十年式歩兵銃のほうが命中率はすぐれていた。


 権左が死力を振り絞って格闘している間にも、日本軍が誇る百三十門の砲が老虎講山、椅子山以西の堡塁を容赦なく砲撃し出した。


 山は味方すら巻き込む援護射撃で煉獄と化し、落ち来る砲弾の雨に打たれ日露を問わず兵という兵は鉄と火に灼かれ原形を残さず吹き飛んでゆく。


 権左は絶え間なく続く死の雨に打たれながらギリギリで命脈を保っていた。


 このとき、戦いははじまったばかりであった。


 二〇三高地は裾野が広い山で、独立しており攻めるのは難しい。そこにたどり着くまでは苛烈な出血を強いられるのは自明の理であった。


 だが、それはロシア軍とて同じこと。


 ならば、山頂の取った取られたを繰り返せば、緻密な塹壕を掘り進んだ日本軍のほうにわずかばかり利があるのでは、と軍参謀は考えたのだろうか。


 血で血を洗う激闘は、それこそ権左にとって永遠と思われるほど、長く、長く続いた。


 ――そして運命の十二月五日がやって来る。



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