02「リュチカとロボ」
ほの暗い水底でフワフワと漂っている感覚だった。
たとえるなら疲れ切って綿のようになった身体をあたたかな湯につけて溶かしていくような。
そのような心持ちだ。
権左は凍てつく二〇三高地の大地でロシア兵と白兵戦を行っていた。
なんの良心の呵責もなくただひたすらに殴り合う。
手のひらに握った石ころを本能に赴くまま男の脳天へと叩きつけた。
生きるか死ぬかは結果でしかない。
ロシア兵が首にかけていた金髪の女が自分に向かって微笑みかけた気がした。
そんなことはあり得ない。
なぜなら、今、権左はその女が愛しているだろう男を嬲り殺しにしているからだ。
徴兵は日本男児の義務だ。
あらゆるものが、父母のため、妻のため、子のため涙を呑んで出征した。
権左に家族はいない。
山で生まれ山と生きやがてすべては山に帰った。
グッと両腕を伸ばして押さえつけたロシア兵の喉首を締め上げた。
どうだどうだと。
おまえはもう国に帰って好いた女を抱くことはできないのだと。
暗い感情が権左のすべてを塗り潰してゆく。
権左は跨った股座の下でケタケタ笑い声を上げる幻想に向かって握り締めた石を力いっぱい振り下ろした。
眠っているような起きているような。
権左はまどろみの中で、リュチカとロボが声を潜めて行っている言い争いをぼんやりと聞いていた。
――ロボ、わたしの命の恩人になんということをするのですか。これでは恩知らずの犬と謗られてもなにひとついいかえせぬ悪鬼の所業です。
――う。しかしですな、儂も悪意があってやったわけではなく、この男が。
――ゴンザさまです。あなたがどのように取り繕おうと振るった暴虐のあとは消えません。見てください。このお顔を。ただでさえ傷だらけだというのに、追い打ちをかけるなんて。我がサロスウルフ族は……いくら落ちぶれていても誇りまでは失いませぬ。わたしは……命を懸けてこの方にご恩返しを。
――で、ですが。わかってくだされ。儂も守り役として忍従の日々を。
――いいからとっとと出てゆく! 当分この屋敷には近づかぬように。ゴンザさまのお世話はわたしがいたします。
ところどころ聞き取れない文言があったにせよ、ロボはこの家から追っ払われた様子だった。
とはいえ、旅順で戦った傷が復調に伴って熱を持ったのか、権左の意識は依然として夢うつつだ。
――ゴンザさま。リュチカが誠心誠意お世話をいたしますね。
やわらかな女の声に包まれ、再び意識が遠くなってゆく。権左は遠い昔、故郷のあばら家で珍しく風邪を引き、母親に看病されたことをゆっくりと思い出していた。
あのときの季節は今と同じ冬であったか。
珍しく、祖父と父も家にいたような気がする。
囲炉裏のすぐそばに置かれた布団に身を横たえ、熱にうなされなながら母親に看病されたことをゆっくりと思い出していた。
先ほど見ていた悪夢がゆっくりとであるが脳裏から取り払われてゆく。
鈴のような声で歌われた子守歌が耳元で鳴っていた。
心地よい。
これほどまで安寧を得られたのはいつ以来だろうか。
そっとひんやりした指先が額の上に乗せられた。
熱を帯びた頭が溶けるように気持ちがよい。
歌っているのはリュチカだろうか。
ちらと見た人相は一瞬だが、ずいぶんな美人であった。
これで頭上に生えた犬耳と、尻から伸びたしっぽさえなければいうことなしだが、自分のような男がなにをいわんや。
――ゴンザさま。お食事ですよ。起きられますか?
自分よりずっと年下の娘に赤子扱いされるのは癪であったが、なんといっても未だ高熱にうなされ言葉を発するのも困難なこの状態ではなんともできない。
――困りましたわね。粥をお作りしたのですが。なにかお腹に入れないと傷の治りが遅くなってしまいますよ。
と、いわれても身体を動かそうと苦慮するが指一本思いのままにならない。
おまけにぶり返した高熱で唇を満足に動かすことも億劫だった。
――じゃ、じゃあ。仕方ありませんね。ロボは、いないですよね。ん、んん。
膜の薄く張った視界の向こうでは、リュチカが皿からどろどろに溶けた麦粥をサジですくって口中に含ませると、仰向けになった権左へと口移しで飲ませてきた。
もにゅもにゅとやわらかなものが口に伝って食道をすべり落ちてゆく。ほのかな塩味とねっとりとした熱い唇の感触を覚えて、フッと意識が遠のいてゆく。
――たくさん、たくさん食べて。早くよくなってくださいまし。
リュチカの声。天井の音楽を聴くような心持ちになった。
結局のところ、半月近くを有して権左は床上げとなった。
ほとんど半死半生のていであったが、リュチカの献身的な看護のおかげで傷はあらかたふさがり起き上がれるようになったのは奇跡的といえた。
「でもよかったです。ゴンザさまがこんなに早くお治りになられて」
彼女の生まれ育った風習なのだろうか、リュチカたちは板張りの床に分厚い絨毯を敷いてその上で生活していた。
人種の差があったとしてもリュチカの容貌は際立っていた。
目鼻はやはりくっきりしていたが笑うと童女のように屈託がない。
彼女が笑うたびに権左は偏屈だった祖父の血を受け継いだ自分がやわらかくなってゆく気がしてたまらなく快かった。
「リュチカさんには面倒をかけてしまったな。この恩をどうやって返せばいいか」
「いいえ、いいえっ。このくらいはあたりまえですっ。わたしとしては、もっともっとゴンザさまにご恩返しをしないと気が済みませんっ」
「そんな大袈裟な」
「おおげさじゃありませんってば」
彼女の看病もさることながら、この家屋はこぢんまりとしていてどこか故郷の家に似ていた。
権左が行軍中立ち寄った中国人が住む家屋とは違い、足元がすべて土というわけでもなく、どこへいっても漂っていた強烈な独特たるニンニクや野菜の入り混じった臭気が存在しなかった。
「ゴンザは儂が思ったとおり強靭な身体の持ち主じゃて。ほら、遠慮せんで好きほど飯をたらふく食うがよい。もっともたいしたもんはありはせんがな」
「てろてろっと食べてくださいねっ。てんこ盛りにしますよ」
リュチカは輝くような笑顔で権左の椀を麦粥でこんもりさせた。
対面に座っていたロボが顎鬚をさすりながらぷかりぷかりとタバコの煙をくゆらせ愉快そうに笑っている。
敵国の人間とは思えないほど気持ちのよい人間たちだ――。
彼らをロシア人だと思い込んでいる権左は、白い肌に青い瞳を持つ巨漢を眺めながらずきりと小さく悔恨で胸を痛めた。
リュチカたちは基本的に屋内では靴を脱いで生活しているらしい。
食事も床に広げた大皿の食器に盛られたものを家族で分け合って食べる。
権左は椀にこれでもかと盛られたどろりとした麦粥をサジですくいながら、その場でぺこりと頭を下げた。
「あんたたちにはずいぶんと世話になった。ロクな礼も返せそうにないが、勘弁してもらいたい。俺にはこうして頭を下げることくらいしかできない」
「ゴンザさま」
「ゴンザよ。顔を上げるがよい。儂らは見返りを求めてお主を引き取ったわけではない。わかるか」
「ああ、じゃあこれでチャラってことでいいか。戦時だけにいつかまた会って礼を、というわけにはいかないことだけが心苦しいが」
権左は急いで麦粥を掻き込むと、未だギシギシ痛む四肢を無理やり動かして立ち上がった。
「ちょっと待ってください。まだ怪我が完全に治りきっていないのですよ。だいたいこれからどうなされるおつもりですか」
リュチカがひんっと声を上げて腕にしがみついてくる。若い女特有のなんともいえない香りがして権左は一瞬ひるんだ。
「とにかく原隊に復帰しないと。この期に及んで敵前逃亡と間違われた日にゃ死んでも死にきれない。あんたたちにおかげでまた戦場に戻れそうだ。ありがとう」
「待ってください! そのお身体でいくさ場に向かうなど考えられません!」
「っと」
感極まったリュチカが涙目で膝頭に組みついて来た。相当に低い位置だ。思ったより力強かったので権左は小さくよろめいた。
そんなリュチカの行動を見守りながら、ロボがなんともえいないような表情で長煙管を煙草盆に置くのが見えた。
「ダメったらダメですからね。わたしは許しませんよ。そんなことっ」
――故郷を出る前にこうして引き留める女がいれば、俺も少しは迷ったのだろうか。
リュチカの特徴的な犬耳がぺたんと垂れている。
はじめはやはり慣れずに違和感を感じたが、こうまで親身に尽くされれば情が湧かずにはいられない。
「ゴンザよ。儂も軍人だった。主の身体の傷を見れば、今までどれだけ国のために尽くして戦ったかは充分わかる。逃げた理由を今更どうこう問い質すつもりもない。そろそろ自分を許してやったらどうじゃ」
「いや、だから俺は逃亡兵ってわけじゃなくてだな」
「そうです! お爺さまのいうとおりでございますっ。ここまで戦ったゴンザさまを臆病者と蔑む者がおればこのリュチカがサロスウルフの名に懸けて許しはいたしません!」
「俺は臆病者でも逃亡兵でもないっての」
三者が互いに侃々諤々と己が主張を繰り返しているうちに、どこか出発の地点が「おかしい……」ということにようやく気づいた。
そのあと、半日かけて権左がリュチカとロボからこの土地の情報をすり合わせたところ、どうも当初中国東北部である満州のどこかであろうという推測はあてがはずれた。
開かれた詳細な地図によるとここは「ロムレス大陸」という聞いたことのない土地であることが判明した。
「わたしたちはゴンザさまのいうところのロシア人という方ではありません。ここはワンガシーク王国北端にあたる小さな村ですよ」
「……わかった。この世にはいろんなことがあるし、俺も今更この場所にケチをつけようと思わん。神隠しってのも聞いたことはあるし、なんらかの理由でこの土地にいることは事実なんだからな。けど、ひとつだけまったく理解できないことがある。リュチカさんたちのそれ、それはなんだ!」
権左がクワッと両眼を見開きリュチカとロボの頭上に生えている耳を指摘した。
「これは耳ですよ?」
「おかしなことを聞く男じゃ。お主の頭にも生えておろうに」
リュチカとロボが頭部にピンと立っている犬耳をひこひこと動かして答えた。
「そんな立派なもん生えてねーからっ」
リュチカたちの説明によると、彼らの頭部に獣の耳が生えていたり、腰のあたりにふさふしたしっぽが生えているのはこの大陸で当然のように暮らしている「亜人」であることの普遍的事実だった。
「わたしたちサロスウルフ族は狼を祖とする一族です。種族ごとにいろいろな外見をした方たちがいますので。ゴンザさまもそのうちすぐに慣れますよ。なにせこの村だけでも、人間はむしろ少ないほうですから」
「そ、そうなのか」
(というかサロスウルフ族というのがなんなのか、まずわからないのだが)
リュチカとロボの言葉は本当だった。リハビリ代わりにふたりに支えてもらって村をぐるりとひと回りすると、権左が今まで見たことのない顔かたちをした村人たちが多数存在していた。
色の黒いの、白いのから、耳の長いエルフにずんぐりむっくりしたドワーフ、タヌキのような耳としっぽを持ったトンチボー族、リュチカたちの眷族であるウルフォックスといった狐系亜人から、コボルトといった柴犬みたいな顔したものまで。
権左はロボに借りた大きすぎる寝間着を引きずり村人たちに引き合わされた。
望む望まざるを別に、権左はこの村で暮らす以外の道は今のところない。
外から来た異物が受け入れられるどうこう以前に、顔合わせは互いにおける無用な軋轢を軽減させるためには必要な行為だった。
ロボが鷹揚に村人たちの前に立って権左のことを説明して回ってくれた。どうやらロボはこの村においてかなりの実力者らしい。
年齢や風格、立ち居振る舞いを取ってみれば納得のいくものであった。
「爺さん。ずいぶんと慕われているな。まとめ役なのか?」
「なぁに。儂はただ馬齢を重ねておる暇なジジィじゃ。そんなたいそうなもんではないわ。世話焼きじゃよ。年寄りは人のやることにケチをつけるのが生きがいじゃからの」
「お爺さまは村の人たちに慕われているのですよ。凄く照れ屋さんで、いつもこうやって誤魔化すんですよ」
リュチカがころころと笑ってつけ足すと、ロボはバツが悪くなったのか青年のようにぷいとそっぽを向いて見せた。
なるほど。この祖父と孫娘、たいそう仲はよいらしい。
権左がそんなことを考えてあたりに寄り添うように立っている家屋を見ていると、腰のあたりにどんとぶつかる感触を覚えた。
「兄ちゃん、兄ちゃんどっからきたんだー」
「あそぼあそぼー」
仔犬の顔をしたコボルトの少年少女が物珍しいのか権左の身体にまとわりつく。
さっきは遠目にチラと見ただけだが、こうしてまじまじと見ると現実のことであると認めざるを得なかった。
「犬だ」
反射的につぶやくと、立っていた子供たちが一斉に
「わう」と吠えた。
「ぼくら犬じゃないよー」
「違うよー」
子供たちの不平不満をよそに、権左は犬そのものといった顔をした少年のひとりを抱き上げた。
当然ながら粗末ながらきちんとした衣服を着込んでいる。
だが、顔面は普通の獣のように毛が密生しており、普通の犬っころと変わりはない。
しばしばまたたく黒い目は人を疑うことを知らぬ清げな無垢さがあった。
「わー。すごーい。たかーい」
――人語を操るという一点を除いて。
「おいこら。なぜおまえらは言葉を話す。お、おい。噛みつくなよ」
権左は茫然としながら犬の顔をしてふんふんと鼻を鳴らす、五つ六つくらいの子供の澄み切った目を硬直したまま見つめていた。
「ゴンザさま。実をいうと、わたしたちは各地から集まった戦争難民なんですよ。これほどまで多種多様な種族が固まって暮らしているのにはそういった理由があってですね――あら?」
リュチカはコボルトの子を抱えあげている権左に語りかけるとようやく固まったままでいることに気づいた。
「どうやらひと息に脳へ情報を詰め込み過ぎたらしいのう。一旦帰るほうが無難じゃ」
リュチカとロボに手を引かれ、一旦は家に帰った。
目覚めてからのカルチャーショックは大きかったが、権左は好む好まざるにこの状況を呑み込むことが、これから生きてゆくうえで重要であると本能的に悟っていた。
「あの、ゴンザさま。傷が痛むのですか? もう、お休みになられます?」
「リュチカ。まだ朝飯を食ったばかりじゃぞ」
「いんや、そうじゃなくてだな」
権左は車座に座っていたリュチカとロボに向き直ると、床に手を突いて頭を低くした。
「ゴンザさま?」
「どうしたのだ、改まって」
「ここが俺の知っている世界ではないということは、充分に理解した。理解した上で、俺はこの世界で生きてゆかなければならない。面倒ばかりかけてすまないが、もう少しばかりこの土地のことが呑み込めるまで無駄飯食いを許してはもらえないだろうか。もちろん、身体が治り次第、他日この恩はきっと返す」
権左はてっきりロボがこの虫のいい要求に対して決断を下すと思い込んでいたが、現実は違った。
長い顎鬚をゴシゴシやっていたロボはそれが当然のことのようにリュチカを仰ぐ。リュチカもあたりまえのようにうなずくと、パッと花のような笑顔を見せてふんわりと口元をゆるめた。
「好きなだけ滞在してください。リュチカは、できればゴンザさまに長く長くいて欲しいです」