18「白銀の海に抱かれて」
よろよろと倒れ込むようにして銀月の死骸のそばに座り込んだ。
怪我のダメージと全精力をかけた格闘でエネルギーを使い果たしてしまっているのだ。
完全に腰が抜けているし、このままでは立ち上がる気力は微塵もない。
荒く肩で息を吐き出しながら、気を抜いたせいか波濤のように襲って来た激痛に顔をゆがめていた。
権左の顔は銀月の爪で深く抉られ鼻梁から頬にかけて二筋の裂傷が深く走っていた。
「くそ……血が」
ズキンズキンと傷自体が別個の生き物のように躍動している。左肩は完全に噛み砕かれているのか、ピクリとも動かない。
わけても酷いのは左脇腹の爪の傷跡だった。そろそろと未だ動く右手を動かして傷口に触れた。血がまったく止まらない上に目を凝らすと赤黒い血の海にのたうつ大腸の動きを直視し意識が朦朧とした。
(ダメだな、これは)
臓器が露出するような怪我をして生きて村まで下りれるはずもない。
二〇三高地の戦いでも戦友が腹部盲管銃創を受けて生き残った人間はいない。
自分はあと何時間生きられるのだろうか。
これほどの巨大なクマであれば死んだ後でも相当な時間あたたかさを保っている。
権左は巨大な湯たんぽに背を預けたような気分で、かなりの時間気を失っていた。
ぶるりと凝り固まった筋肉に痛みが走り全身が酷く冷え切っていることに気づいた。
驚くべきことにまだ命があるのだ。
そっと右手を動かすと濁流のように流れていた血が止まって煮凝りのように固まっている。
――俺はまだ死んでいない。
死んでいないのであれば生きる努力をしなければならないのだ。
身悶えするような激痛がどろりとした意識を皮肉にも覚醒させていった。
幸か不幸か両脚はほとんど無傷だ。足が無事であるということは歩くことができる。ひいてはまだ生還の可能性があることを権左に示唆していた。
権左は不屈の闘志で斜めがけにしていた背嚢からサラシを取り出すと、ギュッギュッと腹部の傷口を覆って止血した。
痛みはもちろん治まらないが傷口を保護したというそれだけの行為がふっと苛立っていた神経を鎮めてくれた。
権左は生まれつき痛みには強いほうだが、今回の怪我は極めつけだった。戦争中にもこれほどの痛手を被ったことは一度もない。
このままジッとしても体力は削り取られる一方でどうにもならない。
アリエルやリュチカにはああはいったが、彼女たちは村に戻れば必ず援軍を送って寄越すだろう。あれから一両日経過していることを思えば、たとえ麓まで下りなくても発見される可能性は充分にある。
「やる、しかないだろう……」
権左は無手のまま下山に取りかかった。
通常の状態ならば日が落ちるまでに村までたどり着く自信はあったが、この怪我でその三分の一までゆけるかどうかすら定かではない。歯を食いしばって、一歩一歩進んだ。
身体中から血という血が抜け落ちてしまったように頼りない。
案外といけるのではないかと思っていたが足を踏み出すたびにその場にしゃがんでしまいたい衝動に駆られた。
身体中は濡れそぼっていてすでに感覚はない。山中に風がないのだけが救いだった。幸いにも雪は止んでいたので道に迷うことも再び体力の消費を強いられるラッセルを行う必要もない。
ただ、愚直に、前に進んで、一歩でもいいから村に近づくことがすべてだった。
膝に力を込めて靴底を雪から上げるのだけにも相当な気力が必要とされた。
人間に最後に残されたのは技術でも体力でもなく気迫である。
並はずれた生にしがみつきたいという強固な信念だけが限界を超えて人を突き動かすのだ。
(チックショ……つれぇなあ、オイ)
幼少のころから数えきれないほど山歩きを経験した権左であったがこのときほど辛かったことはなかった。
全身の骨という骨の中に鉛が埋め込まれたように身体が重い。
関節が軋んで傷口から滲む自分の血液が気持ち悪くて仕方なかった。
何度も何度も力尽きて雪に倒れ伏した。
もうダメだと。もう起き上がれないと精も魂も尽き果てそうになったときはリュチカの笑顔を思い浮かべた。
なだらかな斜面を降りきったところで急坂が飛び込んで来た。
登っているときはたいして気にもならない角度であったが、体力の失った今の自分からすれば断崖絶壁を降りるような登攀に思えた。
権左は往路に掘ったバケツ――いわゆる休憩をとるため穿った雪の窪みに腰を下ろし、雑嚢からなにか食えるものがないかと、あまり自由の利かぬ指を動かしてもそもそとまさぐった。
見つかったのは固く焼いたパンの食い残しと炒った豆が詰まった袋が出てきた。
これだけの重傷を負ってもしきりに喉が渇いた。
渇いていたことを思い出すと、いっそう水分を求める気持ちは強まって喉はヒリヒリと焼けつき、激しいめまいすら覚えた。
あたりに雪は無限にあるが口中に入れて溶かせば身体が冷える。平常時ならば植物のツルを切って水分を補給することもできるのだが、この身体を無理に引きずってルートをはずれるのは死を意味する。
――確か、この先の途中にサルナシがあったはず。そこまでは我慢するんだ。
権左は自制心を働かせて雪を呑み込むことを我慢し、パンと豆を食らった。
ぼそぼそとした触感であるが、口を動かしていると自然と残っていた唾液が無理やり引き出されわずかであるが口中が潤った。
まだまだやれると身体がいっている。動きを長く止め過ぎるともう二度と歩け出せないような気がし、必死に立ち上がって足を動かした。
酷い急斜面で制動が利かず一気に雪原を転げ落ちた。身体のあちこちを強く打って息ができなくなる。
太腿が痙攣している。傷をかばうため妙な部分に力が籠っていたのだろうか。筋肉は疲労し切っておりもう一度歩き出すのに三十分は必要だった。
そんなことをしているうちに陽はあっという間に陰って夜がやって来た。
恐れていたように寒気は強まっていた。
いや、気温は昨日とたいして変わらないだろう。もっといえば吹雪の兆候など微塵も見せず頭上に月まで見える安定した天候の今のほうがずっとあたたかいに違いなかった。
単純に権左の身体に寒さに耐えうる体力が残っていなかっただけの話だ。
軍帽からはみ出した蓬髪とまつ毛は凍りつき、動くたびに血の塊がパラパラと剥落する。
深い絶望が忍び寄って来る。
まぶしい月明かりすら今の権左にとっては疎ましかった。
次第に思考する能力すら低下しかかっている。
ものを思うことすら億劫だった。
――悪い。リュチカさん。俺は、もう戻れないかもしれない。
このまま倒れ込めば楽になる。
傷の痛みも引き攣るような肌を刺す寒気もなにもかも感じなくなって、ぐっすり眠ることができる。
すべてを諦めて純白の海に手を突こうと身体をよろめかせたとき、樹木の隅から巨大な影が続けざまふたつほど飛び出して来た。
権左は自分でも驚くほど敏捷な動作で帯革の銃剣を引き抜くと喉元目がけて襲いかかって来た陰に刃を二度三度振るった。
ぎゃう、と鋭い悲鳴を上げて灰色の塊が雪中に転がった。
斬撃が甘かったのか、たいして傷ついていない様子で四肢を踏ん張った獣が牙を剥いて唸り声を上げている。
――オオカミだ!
皮肉にも権左を現世に繋ぎ止めたのは、山中に潜んでいた野獣たちの群れだった。
驚きよりも早く無傷であった個体が再び攻撃をしかけてきた。
素早く半身を開いて唸りながら突進するオオカミの喉笛を横合いから斬りつけた。
ぎゃん、と凄まじい悲鳴を上げてオオカミが雪上に転がった。
オオカミは断末魔を上げながら雪の上を七転八倒しあたりをほとばしる血で汚した。
「弱り目に祟り目ってか……」
闇に躍った野獣の影はみるみるうち数を増やして四方から権左を取り囲んでいる。
大きさはそれほどでもない。中型犬くらいだろうが、周囲には少なく見積もって十頭は下らない数のオオカミたちが見事なフォーメーションを組んでいた。
権左をどうあっても逃がさない。
確かすぎる決意を感じた。
平常時でもキツそうな数のオオカミたちである。
今の死にかけの身体では寄ってたかって飛びかかられれば生きたまま喰われるのは明白だった。
ぐるるる
と集団は一個の生きもののように統一された意思を持ってジリジリと包囲を狭めて来る。
その一部の隙もない連携は老練な漁師が魚の網を徐々に引き絞るようであった。権左はなすすべなく銃剣を構えたまま呼吸を荒くした。
よりにもよって笑い出したくなるような絶望に、返って権左は腹が据わった。
そうしていると、群れを引きているボスだと思われるそれこそ子牛ほどの体格を持つ銀色の毛並みのオオカミが一歩前に進み出てきた。
落ち着きも風格も違う。
権左は息を止めながら目の前の巨大なオオカミの生物としての大きさに圧倒されつつあった。
月明かりに照り映えてボスオオカミの黄金色の瞳が爛々と瞬いていた。
向かい合っているうちに粉雪がパラパラと樹上を縫うようにしてほのかに降ってきた。
銃剣を握り直して身体をややかがめた。
左肩は今や完全に死んでいた。
感覚というものはまるでなくなっている。
こうして立っているだけでも異様な疲労感を覚えるのだ。
だが、一瞬でも気を抜いてよろめくような素振りを見せればオオカミどもは一斉に飛びかかって来て一瞬で権左の身体を細切れの肉塊に変えるだろう。
銃剣を右手で構えた。
四十センチほどの刃が死にかけた今の権左を守る唯一の手立てだった。
「いいぜ。喰えるもんなら喰ってみろ。俺だってタダじゃやられねェ……」
視界の端で幾つもの影がついに動きを見せた。
巨大な銀色の塊が風を巻いて飛び上がった。
銀月に勝るとも劣らない強大な牙が剣のように喉元目がけて打ち下ろされて来る。
――戦う。
最後まで気力を振る絞って獣たちと戦うのがマタギに課せられた使命なのだ。
動かない役立たずの左肩をわざと噛ませた。
ずぶりと肉を穿って打ち込まれる衝撃に耐えながら、権左は横合いからボスオオカミの左耳の下へと銃剣を埋没させた。
ずぐっと重たげな音が鳴ってボスオオカミが悲鳴を上げて離れた。
浅かった――。
ボスオオカミは距離を取ると首を上げ配下たちに指令を下すためウオンと吠えた。
――そうでなくては、面白くない。
知らず、口元がほころんでいた。
権左は四方八方から飛びかかって来る火球にも似た肉の塊たちを、喉奥から振り絞った怒声とともに渾身の力で迎え撃った。